異形な公園となったサティアン跡地

私:ワタクシには成り切れない

 「公園」とは興味深い場だ。ぼくがかつて、「埋立地」といって考えたように、名古屋市にある鶴舞公園や白川公園にはいまはいないひとびとがいた。公園とよばれる広場には、むかし、その素性を異にするひとびとが集まっていた。

 しかし、なぜ公園は公園として存在しているのだろうか。もちろん、都市計画において効果的な場所に公園が設置されることもあるだろうが、街を歩いていると、こんなところに公園があるのか、と思わせるような不思議な公園もある。

 かってに想像をふくらませるが、「公園」とよばれる場、もしくは地は、公としてしか存在できないような、複雑かつ濃厚な地歴をもつことがおおいのではないだろうか。不思議な公園のなかにはそのような地歴をもつものもあるだろう。そのような地歴をもつ公園のひとつに、富士ヶ嶺公園がある。

 この公園の複雑な地歴にかんしては、富士河口湖町という現在の地名であらわすより、過去の地名であらわした方がいい。そのかつての地名は上九一色村という。上九一色村といえば、あるひとつの教団と記憶が結びつくのではないだろうか。その教団とはオウム真理教である。

 あの1994年の松本サリン事件や、95年の地下鉄サリン事件といったテロ行為をおこした教団であり、その教祖であった麻原彰晃を中心とする死刑囚の死刑執行も記憶に新しい。

 そのオウム真理教の施設であるサティアンが、いまは富士ヶ嶺公園となっている、あの地に建っていた。サティアンといっても、それ自体はいくつもあり、公園になっている地に建っていたのは第2、第3、第5サティアンであったという。

 このオウム真理教とそのサティアンの跡地という地層こそ、こそ富士ヶ嶺公園の濃厚かつ複雑な地歴である。

 この濃厚かつ複雑な地歴をもつ富士ヶ嶺公園を、ぼくは、秋も深まりつつあった10月の下旬に訪れた。この公園のまわりには、静かな空気だけが流れている。東側には富士山が聳えたち、その富士からあふれ出した溶岩の上にその公園があるという、日本でも特異な地質環境のなかにあるのだが、ひとも車もまったくないどころか、ぼくが訪れたその日には鳥の鳴き声さえ聞こえなかった。

 まわりには整備された牧場地と、破棄されたのか、もともと開拓されずにいるのかわからない雑草地があるだけだ。

 ぼくは、この公園に着いて、その風景を見渡したとき、ひとつの不安を抱いた。それは、下調べからくるイメージとは違った風景をきっかけとする不安である。

 ぼくがこの公園を訪れた目的は、公園をただ見てみたい、ということだけではなく、この公園に建てられた慰霊碑をみたい、と思ってのことだった。だが、公園に着き、あたりを見渡しても、その慰霊碑が見当たらず、不安を抱いたのだ。

 もちろん、下調べはしていたから慰霊碑はあるはずだし、慰霊碑のかたちもすでに知っていた。しかし、その下調べが不安をかたちづくったらしい。というのも、ぼくは下調べとこれまでの経験から、かってに慰霊碑が公園の分かりやすい場所にあると想像していた。だが、現実は違った。

 ぼくは駐車場からその慰霊碑を見つけることができず、とりあえずもっとも目立つ屋根付きの休憩所を目指して歩き、すこしばかり経ったあと、その慰霊碑をやっと見つけることができた。すぐには見つけられない、淋しげな慰霊碑であり、それは公園の西側の奥にぽつんと建っている。しかも、これまた想像と違って小さかった。正確な大きさは測っていないが、150㎝もないと思う。

富士ヶ嶺公園:左側の木の下に慰霊碑がある

専門化された公園と慰霊碑

 ぼくがつくりあげ、この公園に無意識に投影していた慰霊碑像は、さきにも書いたようにぼくの経験に即している。ぼくはこれまで数々の慰霊碑をみてきた。ぼくの地元にある伊勢湾台風の慰霊碑も、戦争に関係する慰霊碑も、山へと続く道のそばにある開拓に関する慰霊碑も。

 そのすべてはわかりやすく、車で横をとおっただけで、慰霊碑であることを認識できるような、主張のつよいものであったのだが、この富士ヶ嶺公園の慰霊碑はまったく違う。まるで、見つけられないように隠されてしまっているようにすら感じる。

 この公園へは、ひとつだけ道路がとおっているが、その道路を車でとおりながら、その慰霊碑を見つけることはおそらく不可能だ。実際この公園でもっともわかりやすい建造物は、ぼくが不安に駆られながら目指した屋根付きの休憩所であり、これは車からも見つけることができる。

 また、ぼくの慰霊碑像から考えるに、富士ヶ嶺公園の慰霊碑は今日的な慰霊碑そのものの性格を大きく欠損しているようにすら感じる。

 慰霊碑のおおくは、その慰霊碑に刻まれた情報を読むことによって、なぜここに慰霊碑があるのかを知ることができる。ぼくの経験では、すべての慰霊碑がそうだった。とくに、ぼくが知る伊勢湾台風の慰霊碑にかんしては、公園内にその大きな慰霊碑があり、その横には伊勢湾台風のパネルと、水位を示す棒がある。それだけではなく、慰霊碑の裏側には犠牲者の名前も彫ってあるのだ。

 では、富士ヶ嶺公園の慰霊碑はどうか。

 その写真を示しておいたが、この写真から見て取れる以上の情報もしくは記憶を、この慰霊碑はとどめていない。

富士ヶ嶺公園の慰霊碑

 慰霊碑にはたんに「慰霊碑」と彫られているだけであり、たいていはその裏側に建立された日付が記されるが、それもなく、粗く削られた岩肌があるのみだ。唯一それ以外の情報として、卒塔婆があった。これにはこう記されていた。

 「當処因縁 之 諸精霊 佛果増進 追善菩提」

 かんたんに訳してしまえば、この場に因縁をもつ霊たちの成仏を願う、ということになるが、どのような因縁なのかはまったく触れられていない。また、この卒塔婆の裏側にはこう書かれていた。「乃至法界 平等利益 令和二年三月二十日 有志者 建之」。

 Twitterでこの慰霊碑の写真をおってみると、どうやらこの卒塔婆はつねにあるわけではないことがわかる。

 ぼくたちはこの公園が、オウム真理教のサティアン跡地であったことを知っている。だからこそ、慰霊碑の理由もなんとなく説明できる。なぜならオウム真理教にかんしてはおおくの犠牲者が出ているからだ。

 しかし、慰霊碑、いや今日的な慰霊碑は、なんどもいうように記憶をつかさどるものであるから、その慰霊碑の意味を知らずとも、その慰霊碑と出会ったことにより、その意味を知ることができるものとして存在していなければいけない。そのため、情報は非常に大切であるし、見つけられなければ意味がない。それを備えていなければ、慰霊碑であると認識され、その説明が読まれることによって慰霊碑の役割をひと段落し、そして、ひとびとによって慰霊され役割を果たし終える、という慰霊碑の本質的な役割を完遂できない。

 では、あの慰霊碑の設置場所と、慰霊碑の説明不足さにはなにか合理的な理由はないのだろうか。じつは、理由はある。慰霊碑の説明不足さは、あるブログによると地元住民への配慮であったという(参考)。慰霊碑や複雑な地歴をもつある地・場が地元住民にとっていかに複雑な感情を与えているかについて、最近の事例も紹介しておこう。

 京都アニメーション放火殺人事件の被害地に、公園をつくるべきか、そして慰霊碑を建てるべきかという問題がある。これは遺族と地元住民とのあいだでおこっている問題だと聞く。

 被害者遺族からすれば、あの事件の風化は耐えられるものではないために、その地の記憶継承のためにも公園と慰霊碑を望むのかもしれないし、ぼくのような第三者からしても、それは望ましい。しかし、そこに暮らす住民からすれば、自分たちの生活空間に、そのような悪夢の残滓があることは、被害者遺族とはちがった方向で耐えられないのかもしれないし、できることならすぐにでも消してしまいたいとすら、思っているかもしれない。

 ぼくは、この複雑な感情に第三者としてどのようにつながっていくべきか、ここで書くことはできないため、ほんらいの慰霊碑がもつ自己主張のつよさがときに凶器になることを確認しておくだけにしよう。そして、富士ヶ嶺公園の慰霊碑はそれが完遂され、あの説明不足な慰霊碑へとなったのである。

 もうひとつの疑問、慰霊碑がなぜ隠されたような場所にあるのか、についても、Wikipedia(参考)によると、その場にさきにも書いたマイクロウェーブ焼却炉の「勝利者」が置かれていたという。

 ぼくが感じる慰霊碑にかかわる不思議さや居心地の悪さは、このように合理的に、そして歴史的に説明できるものであるらしい。しかし、いわば、この慰霊碑は、オウム真理教と富士ヶ嶺公園のかかわりを知るひとのみに語りかけている、といっていい状況を引き起こしていることも事実だ。それはオウム真理教について何かしらの知識を得ているひとのみ聞くことができるものであり、なんどもいうように、今日的な慰霊碑の役割はそうではないはずだ。この慰霊碑は、あまりにも専門化しているのである。卒塔婆の裏側の記述をもういちど思い出してほしい。そこには「令和二年三月二十日」と書かれていたが、その日が、地下鉄サリン事件の日であることは、オウム真理教にかんする知識をもつひとのみが知ることができるのだ。

 「公園」もまた専門化しているといっていいだろう。

 さきに、ぼくはこの富士ヶ嶺公園の周辺がまったくひとも車も通らない場所であることを書いたが、そんなへき地に、公の場であり、ひとが集まってもおかしくない、公園があることは、「公」という字にぼくらが抱くイメージとはかけ離れている。この富士ヶ嶺公園という公園の「公」という字は、管理されている場としての「公」であって、自由かつ親しまれ、コミュニケーションの場としての「公」であるとは言い得ない。

 この地がサティアン跡地であると知ったとたんに、「公」として管理されることに違和感は抱かなくなるが、それを知らないひとには違和感を抱かせるはずだ。ここでも、「公園」という言葉は、その地歴を知るひとのみに語りかけている。

 この富士ヶ嶺公園には、地歴を知らないひとには聞こえない語りかけをする、公園らしからぬ公園と、存在も意味も隠されたように見える慰霊碑というふたつの専門化した存在がある。

 この不思議な公園を、ぼくはある言葉であらわしておきたい。その言葉にも複雑な歴史があるが、言葉の響きと、その字面からして適切だと感じた。その言葉とは“異形”である。

 異形な慰霊碑をかかえる公園は、富士山をふくむ周辺の景色とともにその異形さを増している。しかし、なぜあの公園は異形であるのか、ぼくはそこにオウム真理教の影をみるが、その異形さは、さきの慰霊碑の合理的な、歴史的な説明で解消されるべきなのだろうか。そのためにも、そのちらつく影をすこしばかり見ておこう。

知識人と大衆

 オウム真理教という教団とはなんであったのか、それは宗教であったのか、宗教であったとするならば、なぜ彼らは、科学でその魅力をひろめ、武装したのか。といった問いかけは、オウム真理教の巨悪の暴露以降なんども繰り返されてきた。しかも、宗教学者やジャーナリストといった、いかにもこの教団に興味を抱きそうなひとたちのみではなく、おおくの知識人が専門の壁のなかで、もしくは、その壁を越えてこの教団の解明に取り組んだことに、注目してほしい。

 たとえば、作家の村上春樹はこのオウム真理教にかんする著作を2冊刊行しているし、考古学者である竹岡俊樹も教団に関する著作が2冊ある。

 なぜ、オウム真理教はこれほどに知識人に興味を抱かせたのだろうか。もちろん、暴露された巨悪の深さと、国家に対する挑戦、内戦といった文明的な危機感もあるだろうが、いちばんのきっかけは、やはり、このオウム真理教という教団があまりにも不可解なもの、異形なものであったから、といえるのではないか。村上春樹の日常的だが鋭い言葉をここで挙げておこう。村上はオウム真理教にかんする著作のひとつ『アンダーグラウンド』で、オウム真理教の選挙活動をみたときの体験をつぎのような言葉であらわしている。「名状しがたい嫌悪感」(693頁)。

 知識人のおおくはこの嫌悪感をもつ異形さを解明しようと、心血を注いだのである。まるで、ぼくが富士ヶ嶺公園の公園としての存在と、そこにある慰霊碑に惹かれたのと同じように。

 知識人がその探究心と知識人たりえる方法で、オウム真理教を解明しようとしたように、大衆もまた独自の方法でもって、あの異形な教団を消化しようとした。それは、笑い飛ばすという行為による。

 ぼくたち人間は、むかしのあやまちを笑い飛ばすことがある。それは、当事者からすれば考えられない、非道なものでもあるだろうが、ぼくはこの行為に一種の継承をつかさどる意義をすこしばかり感じているから、ここでは冷静にその点に沿ってとりあげておこう。

 オウム真理教にはいろいろな笑い要素がある。歌やアニメ、その教義など枚挙に暇がない。いまもネットにはオウム真理教の各動画が転がっているが、そのコメントの多くが笑い話としてのコメントであることには注目しなければいけない。

 なぜなら、この笑い飛ばされることによってオウム真理教が語られること自体が、教団の異形さを体現しているからだ。

 もともと、オウム真理教は異形な存在であるから、それを言語化して消化するのは難しい。おおくの知識人が挑戦してもなお、麻原らの死刑執行時に、真相は闇のなか、というような、批判があったことを考えてみても、いまだにオウム真理教は完全に解読されていないのだ。そんな異形な教団であるオウム真理教を、大衆は笑い飛ばすことでしか消化できない。そしてそれは、笑い話として終わることはなく、笑いの素材として継承されている。

 その継承はオウム真理教の異形さのみで語れるものではなく、オウム真理教が解体された95年以降に、本格化したネット空間での二次創作などと親和性が高いことから、その要素は素材化されて笑いとして継承されていった可能性もあるが、ここでは、とりあえず、笑いによって消化され、継承されたことに意味を見出すところで止めておこう。

 この、オウム真理教にたいする知識人たちのなみなみならぬ関心と、大衆による笑い飛ばす消化という構図は、オウム真理教それ自体が、あまりに異形な集団であったがために成り立つものと考えなければいけない、としてみる。そして、あの富士ヶ嶺公園をもういちど思い出そう。

異形と慰霊

 あのオウム真理教が“異形”な教団であったことは書いた。そして、知識人と大衆によるオウム真理教解消の行為は、両極端をしめしている。知識人は真剣に重く、その探究心と方法でオウム真理教を解明しようとし、大衆は手軽に、しかし、継承をつかさどりながら笑い飛ばして解明しようとしてきた。その両極端をつなぐものこそが“異形”であった。

 かつ、ぼくは富士ヶ嶺公園にも“異形”という言葉を使った。公園として存在できないように見えながらも公園としてしか存在できない土地(専門化された公園)と、説明不足な慰霊碑(専門化された慰霊碑)によってあの公園は異形さを保っている。

 ここまでくれば、あの複雑な地歴を含みながら、異形な公園となっているあの場を、その意味を導き出すことができるはずだ。

 富士ヶ嶺公園は、ぼくたちが笑い飛ばすことでしか評価できない、もしくは、おおくの知識人を刺激したあの教団の異形さを、、体現しているのだ。富士ヶ嶺公園は異形であるからこそに、その意味を果たし得るのだ。もしも、あの慰霊碑を説明満足なものへとし、公園の地歴を解説するパネルがつくられ設置されたとしたら、オウム真理教の異形さを体現する数少ない場が、ありふれたオウム考察本のように、解体された場所になる。

 ぼくたちは、だれでもさまざまな物事にたいして、専門化していくことができる。すくなくともその通路がひらかれている社会に住んでいる。しかし、専門化していくためにはさまざまなきっかけが必要である。そのきっかけによって、好奇心という名の欲望の一部が刺激され深みへと掘り下げていくことになるからだ。

 そのきっかけの創発創造こそ、過去の記憶の継承といえるだろう。富士ヶ嶺公園という公園らしからぬ公園と、隠されたように建つ説明不足な慰霊碑は異形さを生みだし、結果として、あの異形な教団、オウム真理教を体現している。それはまるで、地下にある過去の記憶が溢れ出ているように。

 異形さこそがあの公園の醍醐味である。ぼくのようなオウム真理教を知り、富士ヶ嶺公園の地歴を知るひとは、あの公園に降りたったとき、その公園によって埋め立てられた記憶を逆行するように無知化していかなくてはいけない。そのときぼくたちはオウム真理教の異形さや嫌悪感を追体験する。そして、公園の異形さにのまれながら、村上春樹が「めじるしのない悪夢」といったように、「めじるしのない」慰霊碑で、「めじるしのない」慰霊をする。そして我に返り、記憶を回復、もしくは書籍をひも解き、個々に異形さを解消しながら、本来の慰霊碑をぼくたちのなかにつくり出し、そこで「めじるしのある」慰霊をする。そのとき、あの説明不足な「めじるしのない」慰霊碑も役割を終えるのだ。

 ぼくたちは、あるべき姿のみで世界を知るわけではない。

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