フィクション空間、デジタル空間の物質文化

まず、注意を書いておきたい。この文章は「考古すること」という投稿の一部分を成すはずだったものである。おおもとの「考古すること」をボツにした関係で、この文章も忘却されるはずだった。

だが、この文章にかんしては、すこし内容的にも納得していたからここに個別として抜き出して書きあらわしておきたい。具体例もなく、覚え書き程度の内容だが、それなりのひろがりをもつだろう。

本来、考古学と呼ばれる学問は、モノに残る痕跡から過去のひとびとを読み解こうとする視線をもっている。たとえば石器や土器といった道具、竪穴式住居や掘立柱建物という建造物、ピラミッドや古墳、ストーンサークルなどのモニュメントなど、モノから世界をながめる。だから文字資料のない先史時代の研究に考古学は必須な立場を有している。

これら、モノに現れる文化を「物質文化」と呼んだりもする。ぼくは、この物質文化のはなしをすこしばかりひろげてみようと考えている。

物質文化をかたちづくるモノは基本、ぼくたちの住む世界に存在し、触ることができ、観察することができるものを指す。民俗学者の宮本常一は、この物質文化を「軟文化」と「硬文化」に分類した(『塩の道』1985:講談社学術文庫:189頁)。前者にはワラ細工や紙などが含まれ、後者には石細工などが含まれる。

ぼくは、この物質文化の分類に、現代においてもうひとつたす必要があると考えている。それが「フィクション文化(フィクション物質文化)」もしくは、「デジタル文化(デジタル物質文化)」である。考古学がより自由になるためにも、このような荒野へ進んでいくことは大切な勇気となるだろう。

現代社会ではさまざまなモノが、デジタル化されている。楽譜、本、絵といった芸術的表現物や手紙などといった日常的表現物など、宮本が言った「軟文化」はみなデジタル化にさらされている。それだけではない。いまや人間はデジタル空間に世界をつくるようにまでなった。たとえば、モンスターハンター(カプコン)というゲームのデジタル空間のなかには、恐竜や怪獣をモチーフとした生物がつくる生態系がある。この世界こそ、人間がつくり出したデジタル物質文化にほかならない。

フィクション物質文化そのものの起源はとても古い。西ヨーロッパの後期旧石器時代には、ラスコー洞窟のような洞窟壁画を認めることができる。その壁画に書かれたおおくの動物や人間は写実的なものもあるが、デフォルメされたものが多い。ただし、意図的なデフォルメーションなのか否かは、ぼくにはわからない。1万年以上前の後期旧石器時代においてすでに、フィクションの世界へなにかしらの物質的存在を描きこむことがはじまっていた。

ぼくの考えでは、このフィクション物質文化も考古的視線によって分析することができる。いま、その方向を主だってやっている訳ではないから、具体的な分析をここで書くことはできないが、これが可能なら、考古の視野は広くなるだろう。そしてそのためにもこの視線は考古的でなければいけない。

先に書いたように、考古という視線は、モノから人間を語ろうとするなかなか無茶な視線だと言える。目の前には土の塊である土器やそれが出土した遺跡の状態のメモしかない。そこから、何か言えることを観察して見つける。ときにさまざまな理論を用意することも、他学問の成果を引用することもある。

とくに、民族誌や実際に土器を作り使う実験、文献資料の参照などによって資料を解釈しようとすることが多い。考古学ではこれをミドルレンジセオリーや中範囲理論と呼ぶ。

まぁ、大雑把にまとめると考古学はモノからヒトを見るためにいろいろと手を尽くす。なぜなら、それら資料は誰か人間によって製作されたモノであり、おそらく、なにかしらの意味があって製作されたモノだからだ。

フィクション/デジタル物質文化も同じように、いくら直接に手を触れることはできないとはいえ、その背後には製作者がいる。そしてその製作者は、そのひとなりの世界観をもっており、それをデジタル物質文化に投影しているはずだ。

かつ、その世界観はそのひとの知識によって、経験によって規定されている。たとえば、埋立地で育ったぼくが街並みをデジタル空間でも、紙にでも構築するとなると、灰色のコンクリート街を書くことになるだろう。しかし、田舎で育ったひとなら、土があり川があるように構築するかもしれない。また現代はTVやインターネットの発達により、自分の風土や世界観の拡張がかんたんな時代だから、もしかしたらそれを通じて知った東京の風景をもとに世界を紙のなかに構築するかもしれないし、ぼくだって見慣れた灰色の街ではなく、妄想的に田舎の原(幻)風景を構築するかもしれない。

それは記憶をきっかけにしかおこなえない。そしてぼくたちの記憶は常に「モノクロ」である(これについては「澪標」という投稿で書いた。)。だから、いくら風土に根差した風景を思い浮かべても、そこには歪みや解釈の余地がでてくる。家の窓の数、日の差し方、車の形や色はつねにモノクロの記憶のなかで二次加工されていく。

それだけではない。ぼくたちには必ず身体的限界がある。目の前にあるコップを完全な形で描き出すことはできない。ここでも無意識的に二次加工が起きる。

二次加工は無意識によって、もしくは身体的な限界によってのみ起こるものではない。あれとあれをくっつけるというような、意識的な二次加工も起きるだろう。妄想的に都会もしくは田舎の風景を描いたならば、その二次加工がつよくなることは想像に難しくない。

ぼくが敬愛する宮崎駿はその才能がひときわ目立ち、ぼくらがみたこともない世界を、宮崎自身の体験をもとにして二次加工して表現している。宮崎作品の登場人物にモデル(たとえば千と千尋の神隠しの千尋とその家族)がいることは有名だ。

もちろん、ゲームもアニメもモデルが存在しないばあいもあるが、その世界はぼくが田舎化を妄想的に描くのとおなじように、つねにその製作者の世界観に左右される。ということは、これらの、ある製作者によってつくりだされたデジタル/フィクション物質文化は、考古の視線で分析できるということになるはずだ。

考古において、土器や銅鐸に描かれる絵や記号に意味を見出そうとする研究が少なからずある。それができるなら、フィクション/デジタル空間に作り出されたフィクション/デジタル物質文化にも適応させることができるはずなのだ。

だからこそ、フィクション/デジタル物質文化を物質文化のなかにきちんと位置付けることができる。具体的に書いていこう。

これに近い視線はいわゆる、オタク的世界にいるひとたちは馴染み深いものと言える。聖地巡礼がもっともわかりやすい例だし、批評家でもありオタキングの異名をもつ、岡田斗司夫はNintendo Switchの「ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド」をブラタモリ的に解読するという、ユーモアあふれる放送(参考)を行なっている。Livedoor NEWSのYouTubeチャンネルにおいても、学者とモンスターハンター世界を見る企画(参考)があるし、ぼくが好んでみているゲーム実況者の三人称の雑談(2020年7月14日 1:22:30ごろからトークのトーク:参考)でも、どうようのトークが繰り広げられている。その素地は大切していかなければいけない。しかし、ぼくが先にこの視線を「考古的でなければいけない」と釘をさしたのは、この素地との差別化にこそ、考古としての意味がある、と考えるからだ。これらのオタク的世界でおこなわれている世界観の堪能は、その作品への沈潜、もしくは作品内での矛盾の指摘、たとえば、この環境にこの植物はおかしい、というようなものというふうにまとめることができる。ここでぼくの視線をもう一度考えてみると、すこしばかり、先に挙げた素地とは視線が異なる。

ぼくは、出来る限り考古的に、その世界につくりだされた、二次加工された物質文化を解釈して、その製作者である人間に目を向けることが大切だと考える。

重要なのはその世界における整合性だけでもなく、聖地でもない。考古として、それをつくった人間をみなければいけない。ぼくは、モノであるフィクション/デジタル文化を通してその背景にある製作者(人間)の世界観を解読し解釈することを目的としたい。

先に書いたように、よくアニメやゲームの批判として挙げられるのは、この環境にこの植物はあり得ないといった整合性への追求である。しかし、ぼくの言う考古的な視線とし分析すれば、その整合性のない世界がつくりだされた意味、二次加工の意味を製作者に沿って解釈することができるあらたな経路のひとつとなるだろう。

日本の考古学界でもこの視線に近い論文が近年発表されている。考古学者の櫻井準也は、マンガやアニメに登場する考古学者に関する論文を数篇(「日本の漫画作品に描かれた考古学者(1)1950~70年代」『尚美学園大学総合政策研究紀要』第28号:2016など)、宮崎駿の縄文理解を主題とする論文(「『となりのトトロ』と考古学」『尚美学園大学総合政策研究紀要』 第34号:2019)をひとつ発表している。これらはPDFで公開されているので、興味があるひとは読んでみてほしい。

おそらく、この櫻井の活動は、ぼくの視線とちかいものがあると思う。しかし、視野に差があることは明確にしておかなくてはいけない。

櫻井の論文は全体として、考古学的分析ではなく、考古学がいかに社会に受け入れられたかというポップカルチャーのなかにある考古学という面に重点を置いている。これはパブリック・アーケオロジー的文脈としての論文であるため、そこに重点を置かざるを得ないのだろう。それに対してぼくはパブリック・アーケオロジー的な文脈ではなく、考古という視線そのものの汎用性に注目している。そのため、よりひろい分野に適応させる必要がある。その目的をもつぼくからすると、櫻井の視線は言ってしまえば考古学的要素がある表現物しか扱えないといった欠点がある。

ジブリ作品を例として挙げれば、櫻井の視線ではジブリ作品のうち分析可能なのは、既に分析された「となりのトトロ」か「もののけ姫」ぐらいだろうか。論理的な世界観を構築する高畑勲作品には、考古学的要素をわかりやすいかたちで含んだものはないから分析できない。これではぼくの目的は達成できない。

ぼくの目的は考古学そのものの拡張にあった。それを ひろがり や つながり といったり、木 や 枝 と言ったりもしてきた。その理念は考古学が豊かであるという従来の考古学による教育普及とは異なった、豊かな世界にある考古学というところにある。世界が豊かであるならば、そのひとつを構成している考古学はより豊かになれるはずだ。壁を取り払い、どこかへと向かっていく必要がある。そのひとつのきっかけとしてこの文章を置いておこうと思う。

もしかしたら、この世界のどこかにもうこの行動を起こしている人がいるかもしれない。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

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