Twitterにてコロナ関連の反対文を書きました。もともと、ぼくはTwitterに力を与えるべきではない、という立場ですが、Twitterで書いたことは、このブログで書いたことの省略ないしは追加に当たるので良しとしました。下にその記録を残しておきます。
まずは、このブログで書いたコロナ関連の投稿
次にTwitterの投稿
ぼくの考えはすべての人が救えるものではありません。ぼくの考えは、運に頼るものでしかなく、全く残酷です。とくに医療者への配慮は書いていません。それは認めます。
ぼくが危惧しているのは、医療知のみで世界が再構成されることです。歴史の立場から見て、法的な拘束力の行使や↓— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
緊急事態の再宣言は、戦後日本の根幹を揺さぶる行為であると言わなければいけない。
下手をすると、ぼくたちの世界の下にある多くの犠牲を無に帰すことになる得るのです。
ぼくたちの自由はぼくたちが作ったものではありません。あの自由は受け継いだものであり、次世代にも渡すものです。↓— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
長い過去を含めたスパンでもって、もう一度冷静に国会議員は、国民は議論すべきです。
ぼくらのひとつの決断が、歴史的にどのような帰結になるのか(これを見通すのはとても困難だが)。憲法的にできるできないの問題ではなく、拳法のもので紡がれた、日本と、自由ということについての問題です。— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
もちろん、日本という問題ではなく、世界の問題でもありますが、世界、特にヨーロッパは簡単にこの問題を退け、自由を拘束し、歴史的に大敗したというべき。
日本はまだそこまでには至っていない。だから日本の問題は今後の世界の問題と言っていいと思う。— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
休業補償をするしないの問題でもない。
補償をすれば休ませることができる、という構図を、歴史的に現代日本で、世界で、残すべきかという問題。— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
国会議員の一部は、なびいていますね。下手をすると本当に強制的な休業はありそう。そうなる瞬間を見届けることは、歴史を愛するひとりとして、真面目に苦しい。まったく歴史的視線が議論の範疇にない。
歴史が示すことの一つに、ぼくたちの生と社会はぼくたちだけのものではない。ということがある。— ひとりの木、考古学:かとう (@hitorinoki) July 30, 2020
Twitterおしまい
何か追加すべきことがあれば、随時追加します。
ちなみに、ぼくはもうTwitterをやめるといい前のアカウントを削除したのですが、また別のアカウントで発信のみをする拘束のもと再使用するという制限を設けています。あまりにかっこ悪い感じは否めませんが。。。言っていることはまともだと思います。