外出禁止とは歴史の否定

  • 2020年6月28日
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ぼくはもともと、政治には疎く、かつ、その世界を嫌っているので、このブログでそのことを書こうとは思わなかったのですが、さすがに歴史的にも危ないと思うので、NHKの世論調査をもとに書くことにします。

NHKによって、「感染症の拡大を防ぐため、政府や自治体が外出を禁止したり、休業を強制したりできるようにする、法律の改正が必要だと思うかNHKの世論調査で尋ねたところ、「必要だ」と答えた人が62%に上り、「必要ではない」と答えた人の27%を上回りました。」という記事が出ました。下がその記事。

外出禁止や休業を強制できる法改正必要62% NHK世論調査

これは危険な流れだと感じます。

ただし、その危険さに入る前に、注意しておきたいのが、このNHKの問いかけの抽象さの問題です。NHKは外出禁止の規模や範囲について明確にしていません。感染者の外出禁止なのか、たとえば名古屋市全体での外出禁止なのか、という具体的な問いかけではないのです。休業もそうでしょう。まずこの問題は指摘しておきます。

で、ぼくがこの問題を危険だと感じる理由は、外出禁止を法的な拘束力でもって促すのは、全体主義的だと感じるからです。ぼくは自由を愛しています。そしてその自由のために死んでいったひとびとの歴史も知っている。しかし、今の世界は、コロナという恐怖心からその歴史を放棄しようとしているのではないでしょうか。もし、このぼくの考えが正しいのだとすれば、この外出禁止を法的な拘束力でもって確保することを許すという行為は、歴史の否定でしかない。

ぼくたちが住む日本は、第二次世界大戦時中に非常に厳しい統制によってさまざまな自由が束縛されました。コロナという恐怖のためにその世界へ戻るのでしょうか。ぼくは戻ってはいけないと考えます。

コロナはもちろん恐ろしいものでしょう。なぜなら、いつどこでだれが死ぬか分からないからです。しかし、冷静に世界を見てみるとどうでしょう。世界はもともとそうだったのではないか、というひとつの答えがあると思います。

本来、死はつねにとなりにいて、いつどこで肩をたたかれるか分からないもののはずです。その恐怖からぼくたちは、死をできるだけ遠のかせようといろいろと頑張ってきた。その結果、死ははるか何十年もむこうに待ちわびているものと考え、感じるようになった。しかし、ぼくたち人間は、いきなりぱっと死んでしまうのです。待ちわびている死はただの幻想だと考えます。

コロナであふれだしている恐怖は、もともと、この地球で生きることのひとつのリスクでしかありません。ぼくたちはただたんに、今日の文明のおかげでそのリスクを忘れていたに過ぎないのです。ぼくたちがこのコロナから学べることがあるとすれば、そのひとつは、このリスクを思い出すことだと考えます。

そして、ぼくたちが思い出すことができる、この当たり前の恐怖・リスクのために、歴史を否定していいのでしょうか。できる限り冷静な考える時間が必要だと感じています。

もちろん、今日の文明から、この当たり前のリスクと共存するために、外出禁止の法的拘束が必要だという議論も歴史という観点から成り立ちます。しかし、それによって、もはや人間の本質とかしている「自由」を束縛すること、それは、あまりに無謀だと考えるのです。

政治は非常に難しいです。ぼくは歴史をやっていますが、この歴史という目線は終わったことをほじくり返すのが役割です。ですから、今起こっている問題に対処するのは少し気が引けるのも事実。しかし、この外出禁止は、ぼくの目には歴史の否定にしか見えない。それはかつて散っていった、生き残ることができず今のこの自由な世界を謳歌できなかったひとびとの人生を否定することになると考えます。

もちろん、今ぼくたちが生きているこの世界は、過去に散っていった自由とは対極を目指した多くのひとびとの人生を否定しているのですが、ぼくたちは多くの犠牲を埋め立てて、今自由を謳歌しているのです。

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