埋蔵文化財保護とタケノコ——ある古墳のニュースをもとに

埴輪持ち去りはタケノコ掘りの親子ら 接着剤で組み立て(朝日新聞)

この記事に関して、おおくのひとが怒っているようですが、ぼくはあまり怒る気になりません。それは、ぼくが現在、文化財保護という観念から遠いところにいるからだと思いますが、それよりも、ぼくはこのことに大いなる可能性を感じます。

現状の文化財保護に関しては、過去のものを保存可能なすがたで残し、そのすがたを変更してはならないことになっています。もちろん、おおくの文化財はそうすることで保存され後世に伝えられるわけで、それは素晴らしいことです。

しかし、ぼくたちもまた過去を作らなければいけません。その行為によってぼくたちは、過去を埋め立てて地表を作る。そのとき、可能なすがたで保存することは、ある意味、過去を作らず、過去を冷凍保存しているだけでしかないかもしれません。

古墳でタケノコ掘りをしていた。このことこそ、ぼくらが過去を作ることではないのか、とも思うのです。そしてこれが可能性です。

ぼくが住む、名古屋にある断夫山古墳の解説パネルには、江戸時代末期に日常的には立ち入りが禁じられていたものの、3月3日だけ立ち入りが許可され、おおくのひとびとが、断夫山古墳から熱田の浜を見下ろしていたと書かれています。(なぜ立ち入りが禁じられていたのか興味がそそられますが)そのとき、おそらく何かしらの程度で遺跡は破壊されていたでしょう。これもまたひとつの過去です。

文化財をただ保存し、後世に伝える。それは大切。しかし、ぼくらはまた、文化財の背景を埋め立てて、過去を足して生きなければいけないときもある。それには多くの犠牲が伴うけれど、それこそが、ぼくらが過去を作るということ。ぼくらはただ、現代を生きれば過去を作れるというわけではありません。過去の積み重ねのなかに、過去を作るのです。

文化財保護に関しては、旧石器研究者の田村隆の言葉を引用しておきます。

「埋蔵文化財にはかけがえのない価値がある、だから保護されなければならないといった俗説は斥けねばならない。いったいだれが価値を定め、根拠のない価値観を押し付けてきたのか。埋蔵文化財には、先験な的な、あるいは天下りの価値など存在しない。……価値を練り上げるのは、私たち(研究者・行政者:筆者注)であり、自己史を回顧する民衆である。自己史のなかで、価値が発見され、それに意味が与えられ、はじめて埋蔵文化財は保護されるべき対象になる。」
(244頁.2011『旧石器社会と日本民俗の基層』ものが語る歴史24 同成社)

この指摘は大切です。ぼくの先の文章と、シンクロしているわけではありませんが、無理に法律によって手を触れてはならぬものと、隔離する。その拘束力は罰金刑。というのは価値観の押し付けでしかない。しかし、その価値などおおくのひとびとは知らない。知る必要もない。ひとびとは生きるために、過去を作るために、過去の背景を埋め立てていくでしょう。

ただし、ここで自己批判としていっておきますが、もし、個人が生きること以上に守らなければいけないものがある、それが文化財である、とすれば、タケノコ掘りも、田村隆の言説も無に等しいものになります。ぼくらに命より大切なものがあるかもしれないことは、今回の新型コロナウイルスでもたびたび議論になっている。それと同様にその価値を考古学者が、しながら、冷徹に提示するならば、ぼくはそれに一定の尊敬を抱きます。

ですが、その場合、過去を作るということをいかに保つかについての言説が伴わなければいけないと考えます。

枝話〉になみに、ぼくは文化財保護に関する犠牲をどう保存していくのか考えるべきと思います。

杵築市杵築城遺跡が中学校建設予定地から見つかったことにより、校舎の建設は一旦中止、学生たちはプレハブ小屋で授業を受けたといます(このニュースに関してはかつてYahooニュースにも上がっていたのですが、今は毎日新聞の有料記事しかありません。ぼくはそれを読んでいません。記憶をもとに書いていることを明確にしておきます)。ぼくらは遺跡だけを保存します。しかし、本来なら、学生が使用したプレハブも残すべきです。でなければ、この遺跡保護によって生じた犠牲という過去をだれも思い出せなくなる。こそこそ過去の廃棄に他ならない。

ただ文化財というものを保護することに腐心しているだけではいけない。何度も言うように、ぼくらは文化財保護ということとは違う過去を作らなければいけないのです。

追伸 2020/06/18に句読点と改行の変更をしました。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

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