ひとつ、疑問がある。なぜ、人間はときに第三者が当事者よりも過激になるのか。
池袋の事故のときもそうだった。第三者たちは高齢者から免許を取り上げることを基軸に波を作っていた。さまざまな表現媒体でそれが謳われ、いいね、リツイートが稼がれた。実際、高齢者から免許を取り上げるという行為は、人権の侵害にあたる可能性もある。なぜなら、田舎を中心に高齢者にとって運転することは、命をつなぐこと同義だからだ。しかし、ネットのおおくは、高齢者を一般化して荒れ狂った。
アメリカのミネアポリスの炎上もそうだ。当事者である、ジョージ・フロイドの弟であるテレンス・フロイドは平和的な解決を望んでいる。しかし、デモ隊の一部は暴徒化した。
第三者は第三者として、そして、当事者ではないという限界において、冷静に対応しなければいけない。しかし、それは忘れ去られている。
そして、なぜひとはここまで対立を好むのか。平和的なデモ隊に対し、催涙弾やゴム弾の使用がここ数日ニュースに取り上げられている。なぜ、ぼくたちはここまで対立しなければいけないのか。これは、感情移入の暴走なのか。それとも、片方が大衆だからだろうか。ぼくにはわからない。一度こうなってしまうと、誰にも止められなくなる。暴走はそれほど恐ろしい。しかし、今の世界はどこかこの暴走を煽っているように思える。それは、風土を超えて均質化しているようにも見える。ぼくは、それに巻き込まれないよう、慎重にしていきたい。
今この世界で、冷静にいられる方法は、自分が第三者であり、限界をもつことをとことん煮詰め、感情移入を心地よく保つことだけだ。しかし、この姿勢はときに、ノンポリやニヒルと揶揄される。
世界には今、敵が味方しか選択肢がなくなりつつあるのだろう。
世界がそれに満たされるならば、それは仕方がないこと。そのとき、ぼくは静かに生きて、そっと死んでいこう。