日構.8 想定外を受け入れる

よくわからないけれど、

ここ数年の日本を狭い視野でも見ていると、生物としての力の低下を思う。

人間はいつからか、適応する側ではなく、適応させる側に回ったと錯覚している。これがこの日本でいつから、顕在化してきたのかは わからない。それでも、ぼくの少ない知識とモノクロの記憶をもちいて、組み立てるとすれば、やはり3・11がそれだと思う。

3・11のとき、日本は「想定外」という言葉で埋め尽くされた。「想定外」の震度、「想定外」の津波、「想定外」の範囲、「想定外」の事故、そして「想定外」の犠牲。このとき槍玉に上がったのが専門家たちだった。

記憶が正しければ、マスコミは連日、「想定外を想定するのが専門家」だと批判した。

ぼくは、この批判をまったく愚かな批判だと感じるが、災後日本において、いかに「想定外」を「想定」するかに力が傾いた気がしてならない。

日本は災後、リスク軽減に進んだ。さまざまなリスクが軽減されるべきであり、それへの努力を怠ることは罪になった。もちろん、リスクは軽減するよう努めるべきだが、人間には限界がある。

しかし、今のリスク軽減は人間の限界を超えることを要求しているのではないだろうか。さまざまな世界は人間によって管理され、そのリスクは計算され、予備される。全てが未来指向になり、世界は無理な努力の底に落とし込まれている。

人間の限界は3・11以降 忘れ去られた。あの震災の傷は、人間の愚かさの克服を渇望させているのだ。

しかし、ぼくたち人間は原子力も放射線もウイルスも、ましてや人間すら操ることはできない。ぼくたちは、つねにさまざまなレベルで適応する側に回らなければいけない。

人間はつねに、自分ではないもの、自分と似たようなものと共存しなければいけない。それを忘れた人類に何ができるのだろうか。

コロナの例を挙げるなら、大韓民国は封じ込めの成果を掲げた。しかし、またウイルスは再熱している。日本もまた同じ道を辿りつつある。なぜなら、ぼくら人間は、ウイルスなど管理できないからだ。ぼくたちはウイルスと共存しなければいけない。

そして、その共存のためには犠牲も出るだろう。それは悲しいことだ。もちろん、その犠牲は、ぼくかもしれないし、ぼくの愛するひとかもしれない。しかし、人間が生きるということはそのリスク、限界を受け入れることだ。

ぼくらが生きる限り、「想定外」は存在する。どこからともなくやってくる。

つねに、リスクと共存し、ときに冒されながら耐え、そしてまた再建し、また崩れる。これを受け入れなければいけない。これを受け入れること、それが、この地球に住むということの、ひとつのパスポートなのだ。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

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