改訂 日構.4 批判の批判という矛盾を抱きながら

この文章は、数日前に投稿した「批判の批判という矛盾を抱きながら」を書き直したものです。あまりに前の文章が下手糞だったので…(なぜあんなに下手なのか)。

しかし、あまりに書いていることが煩雑で、読みづらさを解消できそうもないので、最後に解説を書いておきました。

なお、先日の投稿自体は削除せず、旧版として残しておきます。

・・・・・(以下改訂版)・・・・・

少し今回は、強い言葉になってしまうかもしれません。

この投稿では、批判を批判しています。とても矛盾した内容でしょう。しかし、今の世界の批判をぼくは、「暴力的」と感じるので書くことにしました。

ここ最近の世界は正反の対立に埋め尽くされています。これはコロナによって顕在化したような感じもしますが、ぼくの組み立てた歴史では、やはり反原発運動からその波が続いているような気がします。その対立構造をコロナはとても深めていると言っていいでしょう。

ぼくは、常日頃おおくのひとが、この対立構造の創出に専念していることへ、とても強い不安を抱いているのです。

対立構造は、批判によって作り出されています。誰かが何かをいうと、それに脊髄反射的に批判する。これがSNSでは繰り返されているのです。

批判的であることの限界をあまり意識していないのではないでしょうか。

批判によって議論が不能になることはよくあることで、その議論が不可能な状態になったとき、ひとびとは、さらに過激になり、負の連鎖がはじまります。

だからこそぼくは、対立の奥底にある背景を考えることに重きを置くようにしました。BTSに関する投稿、捏造事件に関する投稿はその価値観を下敷きにして書いています。

しかし、今の世界では、背景は考慮されず、正反の対立が煽られ、現在 話題のコロナウイルスに関してもその対立が原動力になっています。

感染者と非感染者、政治家と国民、親安倍と反安倍、自粛と遊び。

ぼくらが日常を生きるとき、いや日常を維持するとき、対立はもちろん発生します。しかし、すべてのひとがこの対立を望んでいるわけではありません。弁証法的な関係を求めているわけではないと言ってもいい。

それなのに、一部のひとたちはそれを強要している。たとえば、糸井重里の

という発言に群がり批判している。もちろん批判することはいいことです。しかし、先に書いたように、批判的世界では窒息してしまうひとがいることも事実です。

それを理解せず、批判しそれが正義であるという鋭い剣を振りかざすことは、ぼくは暴力に近いと感じます。

おそらく、いま歴史的に否定してきた全体主義や独裁性の効力の復活、人間を拘束することの復活により、ひとびとにある恐怖心が生まれ、そして、このときだからこそ、批判が必要だと考えることでしょう。

ぼくも学問的空間にいたからそれはわかります。しかし、人間にはいろんな思想信念がある。その批判というものを好まないひとがいる。もっと抽象的かつ ゆるやかな力の波を信じているひとがいる。それを忘れてはいけません。

繰り返し言いますが、批判は大切です。

しかし、批判はそのひとの人生(背景)をある程度理解して行うべきです。なぜ、このひとはこんな考え方をするのか、という背景への問いかけのもとに批判は成り立つと、ぼくは数少ない研究者的生活の中で理解しました。だからこそ、自伝や自分語りの部分をより大切に読まなければいけない。

そして、そのひとの人生を理解しようとするには時間が必要です。しかし、今のSNSとくに、Twitterはリアルタイム主義ですから、まずもってシステム的に背景を探ることはできない。ということは、(ぼくの視線で見れば)批判が成り立たないと感じます。

Twitterではそのひとの人生が見えないのです。そしてなにより、ワンタッチで批判的文章が拡散されることは批判とは程遠い浅はかなものでしょう。そのエビデンスも確認せずただ感情に流されてしまってはいませんか? とても不安です。

Twitterはぼくが知る限り現在、感情増幅維持装置になっている。それでも主張し批判したいのならばTwitterという空間ではなく、感情が増幅することない、もっと あまりものの時間が充満した空間を作るべきです。

まずもってTwitterというシステムはアメリカの風土によって作られたシステムであり、かつ、高度な相互批判もまた西洋の風土によって作られたことを理解する必要もあると感じます。

ぼくは、戦争を防ぐ手立てとして従来の歴史がまったく役に立たないことをこのコロナショックで深く理解しました。そして、ぼくの人生から言えば批判の暴走こそ戦争の動力源であることを知っている。

ぼくは今後どう生きるべきかわかりません。しかし、抽象的なゆるやかな波がもつ力を信じていますし、あまりものの時間と空間を作りたいと考えています。そして、このブログがそれになることを祈り努力します。

おわりに少し強い言葉を書きます。書きたくありませんが。

ぼくは対立し批判することが善いとされる雰囲気に支配された、言い換えると、政治的世界や学問的世界が日常に降りた世界にいるつもりはありません。ぼくはそんな世界のために音楽を愛し、文章を愛し、ひとを愛しているのではありません。

今すぐ行動、今すぐ批判、今すぐ署名というリアルタイム主義的な感情煽動と批判こそ正義であると言い、分断をただ煽ることに対し、ぼくは深く深く不安を覚えると同時に申し訳ないのですが軽蔑心も抱きます。

・・・・・以下解説・・・・・

ぼくは、批判をとても大切な行為のひとつだと考えています。しかし、ここでぼくが評価する批判とは、「対話」と読み替えれるものであり、攻撃的な、ましてや強制的なものではありません。
しかし、世界では、当たり前のように「対話」に読み替えることがでない批判が振る舞われているのです。そして、本文でも書いたように、SNSはリアルタイム主義なので、「対話」と読み替えることが可能な批判は成り立たない。
だから、過激な批判がおこなわれるのです。

ぼくは、この状況を、ただ感情を煽り対立を深めるものと思っています。そして、それはとても愚かなことではないかとも思うのです。

世界には、過激な批判に耐えることができなひとがいます。ぼくは実体験としてそれを知っています。しかし、批判が全てになるリアルタイム主義の空間では、そのことは考慮されていません。もし、SNSで「対話」が可能と思っているひとがいるなら、ぼくはもう少し考え直した方が良いと感じます。
「対話」のためには、そのひとの人生を知らなければいけません。そのひとの人生を知ることによって、ぼくたちの感覚が拡張され、つながり、ひとつの接地点を作ることができるのです。これも本文で書き、何度も言うように、SNSではできないことです。

現在、世界はSNSによって占められています。そして、学問的・政治的世界が日常に降りてこようとしている。その世界はあるひとにとって、どれだけ生きづらいでしょう。
SNS空間において、批判こそ! というような考えをしているひとには、ぜひ再考してもらいたいものです。

もうひとつ、枝話を。
ぼくは、日本の良いところとして、政治的な空間と日常的空間の隔たりが諸外国と比べて大きいことをあげます。
政治的対立が侵入できない場があることは、ぼくはとても素晴らしいのではないか、と考えるのです。
それとは反対に、政治に関心が高いひとたちは、どれだけ、政治に関心がないひとたちを巻き込めるか、をひとつの価値観としてきました。ぼくにとっては、これこそSNS的戦略であり、危険だと思うのです。
ぼくは、先日の投稿でも、このままSNS的価値観が中心の社会で良いのか、という問いを掲げました。政治に関心が高いひとたちは、SNSを武器にしています。しかし、SNSはシステムであり、生き物です。そのうえ、引き金を引けば玉が出るというような、簡単な因果関係ではなく、複雑かつ観察不可能なほどに細分され拡散される性質をもち、つねに感情が増幅され、対立を煽っています。ハッシュタグは多様性を消し去り、簡単なワンタッチで情報が拡散される。
これが、暴走したとき、何が起こるのでしょうか。
そして、その力を強めるひとつの要因が、SNSの政治的武器化だと感じるのです。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

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