日構.7 多様性のSNSと、その副作用

SNSはとても便利だ。誰でも意見を発せられ、誰でも国を動かすことが可能になった。「〇〇法案改正反対」というハッシュタグがそれを如実にあらわしている。

SNSは多様性を獲得したのかもしれない。しかし、それと同時に、副作用としてある多様性をこぼした。

SNSはその特徴からして、強いひとには絶大な効果をもつ。いくら、アンチが来ようと対応することができるひと、批判ができるひとにとっては、宝箱なのかもしれない。

しかし、そうではないひとにとってSNSは、現実逃避にもならない、ぐちゃぐちゃの世界でしかない。SNS、とくにTwitterはタイムラインを相当管理しなければ、さまざまな情報が流れ込んでくる。

そのせいで、いくら現実逃避をしたくても、その現実が瞬く間に襲いかかってくる。さまざまなひとを巻き込み、感情を煽動していく。これが、SNSの強い点であり、弱い点だ。

ぼくは、SNSに適応できないひとは、SNSを使用するべきではないと思う。勇気を出して撤退をすべきだ。しかし、現代社会はSNSによって動いている。とうとう、国までがSNSやハッシュタグという見えやすい数値によって動いてしまった。SNSが民意になった。

この現代に生きること、それは、SNSに弱いひとにとってどれだけ生きにくいことだろうか。

日常生活が学問的、政治的批判によって埋め尽くされ、心安らぐ空間が侵食される。強いひとは、心安らぐ空間そのものすら、批判するのかもしれない。ぼくもかつて、そうだったし、今 純正考古学にむけている「オタク」という批判こそ、それだろう(自戒として)。

もう一度、言おう。

SNSは多様性の宝箱でありながら、その宝箱に入ることすらできないものを取りこぼしている。

そして、取りこぼされた ひとびとは、SNSが支配する現代に適応できないことに、焦りを感じ、撤退を心配する。SNSが強力になりすぎたために、逃げることすら、できなくなってきている。

この情景はSNSが強くなればなるほど、はっきりと映ってくる。

ここ数日、SNSの力の増幅が激しい。このときに、きちんとSNSを考えるべきだ。

ワンタッチで情報が拡散され、そのエビデンスすら確認できない空間において、なにができるのだろう。その限界はもう見えているはずだ。ぼくには、はっきりと見えている。

大学教授やジャーナリスト、政治に関心が高いひとびとが、フェイクニュースに踊らされているのを何度も見てきた。

そしてなにより、誹謗中傷と批判という、元来 異なると考えられている行為すら、その境界は危うい。

もうひとつ言っておこう。

ぼくは真なる多様性が確保された世界は存在しない、と考えている。かならず、取りこぼしがあるからだ。しかし、現在のSNSは社会を覆っている。これは、あまりに不健康ではないだろうか。

SNSは、ぼくら人間が、あやつれるシステムなのだろうか。

そして、ここまで如実に、いや露骨に数値と感情が表出するシステムが、中心でいいのだろうか。

まだ、人間はSNSに適応できていないのかもしれない。そして、未来永劫、適応できないかもしれない。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

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