K-POPのみっつのはなし

合わせ鏡

ここ最近、ぼくの好奇心は韓国にむいている。韓国の現代文化と日本の現代文化を合わせ鏡にすることで両国の違いや、つながりを導き出すこができれば、存在感を増している韓国と没落気味の日本、そして日韓関係にあらわれる歴史問題への何かしらの糸口になると考えるからだ。

この投稿では、そこに深く踏み入ることはできないが、数日前に読んだ本におもしろい記述があったので、その記述をもとにすこし拡張して短い文章をみっつほど書いておきたい。

アイドルと音楽の始源

ぼくが読んだ著作は、金成玟(キム・スンミン)『K-POP―新感覚のメディア』(2018:岩波新書)で、K-POPを体系的に分析している。

そしてこの著作のなかで注目したのが、K-POPはアメリカ型アイドル(パフォーマンス重視)と日本型アイドル(ビジュアル重視)の融合として位置付けられるという記述と、「観る音楽」とアイドルの関係である。

ぼくたち日本人が、K-POPを観聴きしたとき、その特異性に目がいく。たとえばメイクや髪型や髪色というファッションや、ダンス、歌、韓国語など日本のアイドルとは異なる感覚をもつだろう。

このK-POPの特徴を、アメリカ型アイドルと日本型アイドルの融合、そして「観る音楽」の活用というキムの視線に、確かに納得する。例えばBTSが2019年の12月にFNS歌謡祭に出演した際、一部のファンから日本のカメラワークに非難が起こった。

それを踏まえて、韓国でのBTSの公演とFNSでのパフォーマンスを見比べると、カメラワークの違いが激しい。

韓国でのカメラワークは、感情を扇動するような激しいもの多いが、日本のカメラワークはおとなしい。照明についてもそうで、韓国の場合はディスコを思わせるほどの派手な照明演出があるが、日本はポリゴンショックの関係か、国民性かそんな派手な照明はあまり見ない。

キムはこの「観る音楽」という音楽的側面を、1981年のアメリカケーブル放送局MTBに求めていて、K-POPの文脈からみた構成という点で整合的だ。これを、もう少し拡張してみよう。

その拡張によって、ぼくはもうすこし深い歴史に立つならば「観る音楽」は音楽の始源である、と考える。

本来、音楽は観聴きするものだったのではないか。

しかし、現代文明に生きるぼくたちは、その歴史を忘れている。音楽が耳で聴き、音ですべてを表現する、という目的が作曲家だけではなく、聴衆までに広まったのは、エジソンが蓄音機を開発した以降のことで、それ以前の聴衆は音楽を特定の場所に行き、目で観ながら聴くしかなかった。録音された音だけを聴く文化はここ150年ほどの歴史しかない。

音楽がもつ長い歴史を主軸に考えると、アメリカ型アイドルや日本型アイドル、K-POPアイドルを含め、アイドルと呼ばれるひとびとは映像技術の開発と発展と共振しながら音楽の始源へ回帰したと理解できる。

また、それら技術発達によって、ぼくたちは何度も映像と音楽をセットで観聴きすることができるようになった。これは音楽の歴史上はじめてのことであり、蓄音機が開発される前の、「観るしかない音楽」では、一回限りという限界をもっていたが、その点も克服された。

アイドルは日本では揶揄としても使われる言葉でもあり、アーティストよりも下位の存在として考えられている節がある(事実ぼくもそうだ)。しかし、この視点に立てば、アイドルは音楽の始原を目覚めさせた大きな役割を担っていたことになり、あなどれない大切な音楽ジャンルと言える。

「K」という「欲望」の私的な消化

先に挙げた、キムの著作において、もうひとつ面白い記述があった。それはK-POPの「K」を「欲望」と呼んだことだ。

この本を読み進めていくと、金が「欲望」といった意味がわかる。それについては皆さんに直接確かめてもらいたいが、K-POPの「K」の確立に対して向けられた、さまざまな戦略や、首都ソウルの江南開発とK-POPの共振など、「欲望」たるゆえんが明らかになってくる。

ぼく自身も、とても面白く読み進めたのだが(とくにソウル都市開発の話は絶品で、今ぼくはソウルに行きたくてしょうがない)。K-POPという音楽にある「欲望」を、なんとなく頭では理解したが、消化しきれずにいた。

BTSの音楽を聴いても「欲望」生々しく感じることができなかったのだ。それは、ぼくがちいさい頃から、何かしらK-POPと接し、日常化していたからかもしれない。

しかし、数日前に、ある曲に出会った。その曲を聴いてK-POPの「K」という「欲望」を消化することができた。

その曲は金連子(キム・ヨンジャ)の「アモール・ファティ(아모르 파티)」である。この曲を言葉で言い表すのは難しいので、下に動画を貼っておく。一度聞くと、この音楽に溢れかえる「欲望」を感じることができるかもしれない。少なくとも、ぼくは衝撃的にその「欲望」を感じた。

それでも少しだけ言葉であらわせられることを書いておこう。

キム・ヨンジャはかつて日本でも精力的に活動をしており、紅白歌合戦へも出場している。非常に力強い声の持ち主。

韓国にも、日本でいう演歌と同じトロットというジャンルがある。演歌はもともと、自由民権運動から派生したものといわれており、その演歌が韓国へ渡ったのだろう。

このキム・ヨンジャの曲はEDMトロットと呼ばれるものらしく(参考)、キム・ヨンジャの歌唱はいかにも演歌的で、美空ひばりがジャズを歌うと演歌に聴こえるのと同じ感覚を抱く。しかし、この曲の旋律は演歌やトロットとはまるで違い、言いあらわすならディスコだ。

この、歌唱は演歌・トロット、旋律はディスコ、という音楽が、大御所歌手から生まれる。それこそが「欲望」ではないだろうか。

この「欲望」に満ち、流動するK-POPが、これからどんな道を辿るかはわからない。ただ、東アジアの文化のひとつに数えられることは間違いない。

そのときに日本との文化も比較すると何が言えるのだろう。まだわからないし、おそらくK-POPと日本の文化の比較は、もう盛んに行われていることだろう(キム・スンミンの著作もそのひとつ)。

ただひとつ、なにかを示すとすれば、K-POPと比較すべき日本の文化はマンガとアニメがもっとも良さそうということは言えそうだ。キムの著作を読んでもらえればわかることだが、K-POPはアメリカと日本の文化の融合、とくにアメリカの文化に強い影響を受けている。

それと同じように、今や日本の代名詞でもあり、大英博物館でも特別展が開催される日本のマンガ・アニメもアメリカの影響を強く受けている(東浩紀2001『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)に多くを依っている)。

K-POPと日本のマンガ・アニメは形成過程が非常に似ており、このふたつを基軸にして、両国のアメリカとの関係について考えるのは面白そうだ。

もう少し話をひろげてみたい。ぼくは韓国(朝鮮半島)の文化のつくり方は、日本のそれと類似したものではないか、という問いを今もっている。K-POPとマンガ・アニメもそうだが、日本は古来より、中国に栄えた文明と いかに付き合い、吸収するか、という戦略、そして、日本列島という地理がもつ環境を取り入れつつ文化を ごとごと とつくってきた。

韓国は中国栄えた文明の陸つなぎの隣国として、日本とは異なった戦略をもち、その環境を取り入れてきた。

近代から現代になると、それにアメリカが加わる。もちろん先史時代から有史時代、現代にかけて日本と韓国は互いに影響を及ぼしている。両国(地域)の文化のつくり方は、差はあるものの同じシステム 構造をもっていそうだ。

現在、ただふつふつと思っているだけだから、これ以上は踏み込めない。しかし、金達寿(キム・タルス)の、ある短い文章(1968「朝鮮文化について」『岩波講座 哲学13 文化』290-302頁)に、あまりに好奇心を刺激されたので書いておきたい。

キム・タルスは、李朝時代に、なぜ前代の高麗とは異なった文化をつくり出したのかについて書いている。高麗から李朝へは受け継がれた文化もあるが、キム・タルスは、青磁が主体だった高麗から、李朝はなぜ白磁へ変化したのか、そしてその「白」が、なぜ衣装にまで及んだのか(「白衣民族」という言葉があるらしい)について考えた。

それは、朝鮮民族の、ひとつの「とぼけ、おおらかさ、ユーモア」(302頁)だという。

朝鮮民族が住む朝鮮半島は、日本とは異なり、大陸にぶら下がって隣接している。そのために外圧といかに抵抗するかが問題だった。この点は日本のばあいと頻度も規模も異なる。その外圧への抵抗のなかで、発明された「白」こそ「ユーモア」であるという。

そして、日本も中国にあった文明も、多彩な衣服があった。しかし、李朝は「白」に占められた。このふたつの国に挟まれた、李朝にとって「白」は「不滅の色」であり「象徴」(301頁)だと、キム・タルスは論じている。

このキム・タルスの視線、とくに「とぼけ、おおらかさ、ユーモア」は、K-POPもまた同じ基軸で考えることができそうではないだろうか。「K」という「欲望」によって生み出されたK-POPの空間と音楽は、李朝の「白」の発明と、おなじなのかもしれない。

「白衣」は日本の統治によってなくなってしまったが、朝鮮半島には、まだ「白」の脈絡は続いているのかもしれない。BTSが出演するバラエティ番組「Run BTS!」で陶芸体験をする回がある(2018-EP.46)。そこで作られるのは白磁であった。

BTSと感情移入

2020年5月下旬に柏書房からBTSに関する訳書が出版された。もう重刷に入っているらしい。内容がとても楽しみだが、いちおう、ぼくがここ最近までBTSに関して書いてきたこと考えてきたことを、まとめておこうと思う。

まず、BTSは今や世界トップのアイドルであることは間違いない(ここで言うアイドルはARMYとBTSの関係からくるアイドル像でそれについては先日のBTSの投稿(補足版)をみてほしい)。そしてかつて、投稿(補足版)にも書いたが、このBTSは21世紀型のアイドルのひな型、金字塔として歴史に残ることになるだろう。

そのBTSがここまで売れたのは、SNS戦略のうまさや、YouTubeを活用する「観る音楽」への傾倒などがあげられるが、ぼくが感じるに、これら21世紀的戦略において、もっとも重要なのは背景(文脈)である。

これについては先に挙げたキムの著作でも書かれていることだが、BTSは背景を見せるのが本当にうまい。

ここ最近で言えば、VLIVEやYouTubeを使ってアルバム作業の工程(メンバー会議やビジュアル制作など)を放映している。このような戦略によって、ARMYはアルバム完成への道筋を俯瞰して、完成されたアルバムを享受する。

それは通常の背景が見えないアルバムより特別な感情が抱ける。この感情移入は、いくら素晴らしい作品でも、単体ではおそらく困難であり、音楽やパフォーマンスだけでは感じることが不可能な、背景へと、簡単に誘われていく。なおかつ、これはPOP的であることと強い親和性をもっている。

BTSやアイドルと呼ばれるひとびとは、日常的な空間に住んでいる。いや、住まなければいけない。いくらTVに出ようが、賞をもらおうが、結局は日常にいるファンがいなければ成り立たない。だからアイドルは日常にいなければいけない。

そして、日常は私と私の感情移入が大きなキャパシティーをしめている。日常生活で私を捨てた批判(学問的世界の規則)はほとんど成り立たない。やってもヒステリーを起こすだけだ。この感情移入がおおくのキャパシティーを占める日常において、BTSの背景をみせる戦略は、最良策だと言っていい。

具体例を出すなら、BTSのドキュメンタリー映画がアメリカにおいて非常に優れた興行収入を出していることを挙げておく(参考)。

この感情移入を戦略とすることは、日常生活空間でビジネスをすることの強い武器になる。しかし、問題もある。

感情移入が激しすぎれば、BTSの原爆騒動のような火種はすぐさま忘れられていくからだ。

ぼくはBTSの人気に水を差したいわけではない。がしかし、この21世紀の金字塔的グローバルアイドルが、このナショナリズム的な問題、騒動を抱えたことは注目する価値がある(このナショナリズムとグローバリズムの関係については、東浩紀2018『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)に多くを依る)。

ちなみに、キム・スンミンの著作でも、TWICEのナショナリズム的騒動をあげ、従来、おこなわれてきた、このような騒動を避けるための商業的リスク管理がいつまで継続可能なのか、という問いが掲げられている。そして、この本が刊行された2018年7月20日から3ヶ月と少し経ったあと、BTSの原爆騒動、ナチス騒動が起きる。

BTSが今後どうなるかはわからない。兵役によってメンバーがひとりひとりと活動休止していくし、コロナショックによる各国の鎖国がいつ解かれるかも不透明。このとき、21世紀型のグローバルアイドルはどんな方向へ進むのだろう。とても楽しみだ。

この続きはcodocで購読

現へのまなざしの最新記事8件

>「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

CTR IMG