日構.5 XiaomiのCMから考えること

つい先日、こんなニュースを目にした。

Xiaomiのプロモーション動画に原爆を揶揄する表現?「配慮欠けていた」とおわびを掲載

日本に上陸した中国のスマートフォンメーカー「Xiaomi」のCMで原爆の揶揄ととれる描写があり、それに対して謝罪したという記事になる。

ぼくは先日、BTSの原爆Tシャツの騒動を扱ったので原爆問題にそれなりの関心が立っていたそのとき、新たな事例が出てきたわけだ。

これについて、ぼくは取り立ててなにかを表明する気はない。「Xiaomi」は謝罪しているし動画も観覧できなくなっている(YouTubeにはたくさん落ちている)。

しかし、ひとつ考えなければいけないのは、このような騒動に対して極めて敏感に反応し不買運動などを煽る一部のひとびとである。

ぼくは、このひとたちにあることを伝えたい。それは文化・教育・歴史の差だ。

ぼくは日本国民だから日本の歴史を知っているし、原爆の悲惨さを知っているから、原爆を揶揄されることは、日本の歴史を飛び越えて人類史と捉えても良い行いとは考えないし、その態度にそれなりの意見を言う。

しかし、これは日本国民だからわかることなのかもしれない。という無理やりな一般化を防ぐ一時停止が必要だと思う。

ここ最近、さまざまな歴史的事実の解明や遺伝子レベルの分析が進み、ぼくたちが考えるほど人類には差がないことがわかりつつある。文化に際しても、文化相対主義が大きなパラダイムをつくった。

その経過のなかで、国史を飛び越えたよりグローバルな歴史、例えば東アジア史のような国という境界を弱める歴史も盛んだし、人類史やビックヒストリーというメタ歴史も盛んだ。

いささか平和的な歴史構築が可能になりつつあるが、ぼくたち人間はグローバルのみには耐えられないアイデンティティがある。国や地域が未だ解体されていないのはここにある。

ぼくたち日本人が原爆的描写を瞬時に揶揄と捉える能力はこのアイデンティティに根差している。ぼくたちは日本の文化・教育・歴史を知っているからだ。

この問題のCMの制作者の素性は知らないが、おそらく、その感覚やアイデンティティがぼくらとは違うのだろう。諸外国のいわば日本とは違う文化・教育・歴史をもつひとびとにとって原爆や核兵器はひとつの科学史的実験として捉えられていてもおかしくない。

その差こそぼくたちがこのような騒動において得るべき教訓だろう。

逆に、例え話になるが、日本のアーティストやアイドルが紅白のボーダー柄の衣装を身にまとっていたとする。日本人は紅白のボーダーに「めでたい」や「ウォーリー」、「楳図かずお」ぐらいしか連想しない。しかし、中国や韓国などはそれをみて瞬時に旭日旗を思い出すかもしれない。

今回の原爆の騒動はどちらにしても、どこでも起こり得る問題として捉えなければいけないのだ。

ぼくは、その文化・教育・歴史の差からくる、原爆の揶揄を文化相対主義的な視線で肯定するつもりはない。もちろん諸外国の文化・教育・歴史は尊重する。それと同時にこちらの文化・教育・歴史も尊重してもらわなければいけない。でなければ相対性など成り立たない。

ぼくたちはこのような騒動のときにそれを相互で自覚することが求められる。そして不買運動や反中という政治経済的対立ではなく、正当な手段でもって不快であることを伝えなければいけない。それこそ、核の被害者たる日本がやるべき人類史の大きな役割であると考えたい。

さまざまな問題に関して政治経済のトップはこの問題は解決済みである、と主張する。ぼくたち俗人はその言葉に甘んじることなく自分ができることをやるべきだ。それには不買運動というような過激なものも もちろん含まれるが、それの繰り返しはあまりに空しい。

より建設的な相互的な関係がより善いだろう。今 世界はグローバル化によってその道が開かれている。その点はグローバルの善いところだ。それを活用しよう。

ちなみに、アイデンティティは人生と読み替えてもいい。

おしまい。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

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