映画『真珠のボタン』をみて

真珠のボタン

『真珠のボタン』というドキュメンタリー映画をみた。とても軽い気持ちでみはじめたのだが、多くの共感があったこと、そしてこの映画が伝えようとしたことが、ぼくが思う考古学がもつ力と親和性が高かったことから投稿することにした。

しかし、とても息苦しい内容だからうまく書きあらわせるか分からない。

なお、この『真珠のボタンは』はAmazonPrimeVideoで無料で見ることができる。

すこし映画の内容を紹介しよう。

この映画はチリを舞台として、過去と現在と宇宙がつながる。過去はチリのパタゴニアに住む先住民(インディオ)たちの暮らしと白人との関係。そして白人による先住民の虐殺。現在はその先住民の生き残りと後述するボタン。宇宙は地球でもっとも乾燥した砂漠をもつチリならではの宇宙観測から得られた地球以外の水をもつ惑星や星雲。

これらが先住民の記憶を軸としてつながれていく物語は、チリの地理環境と深く結びついている。チリは長い太平洋に接する海岸線を有している。海岸線の長さをWikipediaを参考にしてみると、チリの海岸線は6,435㎞を有している。そしてパタゴニアに住む先住民たちはこの海を生活空間の重要な場所に位置付け、カヌーを用いて海上移動をおこなっていた。映画によるとこの先住民たちは石碑などをもたなかったらしく、そのかわりに身体へ点や線を活用したペイントを施した。これは、ある解釈では宇宙の模写であるという。

そして先住民たちは1883年に入植者が到来するまで、石器時代を生きていた。まんまるに加工した石をお守りとしていたというし、優美な石槍もしくは石鏃をもっていた。

もちろん入植者の到来は先住民の生活を変革させ、彼ら彼女らの言語と文化を奪った。それだけではなく、入植者が持ち込んだ病原菌により50年以内に多くの命が奪われ、幸いにも生き残ったひとびとは、これまた残酷な先住民狩りの標的とされた。映画によると睾丸と乳房がひとつ1ポンドに、子供の耳はひとつ10シリングという報酬が支払われ、いまやインディオの純粋な子孫は20人だけだという。

1973年に樹立したアウグスト・ピノチェトによる独裁政治によって、パタゴニアに住む先住民を含むおおくのひとびとは秘密収容所へ送還され拷問され殺された。その遺体の一部(もしくは生きたまま)はヘリコプターで運ばれ海や湖、川、アンデスの山頂へ投げ捨てられた(映画では海のみが描写されるがWikipediaを参考にしたところ海以外へも投げ捨てられたという。これを死のキャラバンと呼ぶらしい)。

内容の紹介はここまでとして、ぼくが共感した部分に進もう。

ぼくが共感したのはふたつある。ひとつはジェミー・ボタンという名が与えられたインディオの話、もうひとつは先に後述するように書いたボタンの話である。

ジェミー・ボタンというインディオの話

この映画の中に登場する先住民(インディオ)には数人固有名も登場する。中でもぼくが惹かれた名が「ジェミー・ボタン」。19世紀のはじめロバート・フィッツロイという英国人を船長とする船がパタゴニアに着いた。フィッツロイはインディオの4人をイギリスへ連れ帰り文明人化することにした。そのとき真珠のボタンと引き換えにしたインディオのひとりが「ジェミー・ボタン」だという。

彼は石器時代的空間で生きていたが、行き先であるイギリスは産業革命により近代化した世界だった。彼はある意味タイムスリップしたと言ってもいい。1年以上そのひとつの未来の世界で暮らし、そしてまた石器時代的空間へと戻った。しかし、彼はもうその世界に真に帰還することはできなかった。

この話はとても面白い。ジェミー・ボタンの心情を考えれば「面白い」という言葉であらわすのはとても残酷なことだが、ぼくにはこうあらわすしか方法がない。

これはぼくたちの問題を端的に示している。

ぼくたちは文明化され近代化された世界に住んでいる。手には世界へつながる画面をもち、排気ガスを吐きかける車、もしくは何かを燃やし、または核分裂、または自然エネルギーによって発生した電気で動く電車に乗り移動している。

しかし、このぼくたちの住みよい世界がその地球を破壊していると気づくと、それを守ろうと努力する。しかしそう簡単に努力はできない。

排気ガスを減らすのにもっとも効果的なのは車に乗らないこと、火力発電を使わないことだろう。しかし、それは叶わない。ぼくたちはジェミー・ボタンと同じように自然と溶け合う生活空間にはもう戻れないからだ。

いま、それを乗り越えるのはテクノロジーということになっている。排気ガスを出さない車、火力発電ではなく原子力発電。しかし、そのテクノロジーもまた人間がコントロールできるようになるにはまだ時間が必要で、原子力に関しては3・11の事故、それを遡る東海村JCO臨界事故、諸外国ではチェルノブイリやスリーマイル島原子力発電所事故など人知をそして文明の期間を超えた被害を出すことすらある。

テクノロジーによって被害を受けた自然を守るためにまたテクノロジーに頼る人間。この構図はレオポルト・フォン・ランケが『世界史の流れ』で示したような物質面では無限の進化が可能なのにも関わらず、人間の精神の進化はまったく認められないという考えによく似ているように見える。だがぼくはこのランケの指摘を違うように解釈する。ジェミー・ボタンを参考に考えてみると違ったようにも見えるからだ。

確かに物質面での進化進歩はほぼ無限に思えるが、精神もまたその進化する物質に依存すると言った方が良いかもしれない、と考えたい。もし、精神がランケの言うようにまったく進化していなのであれば、ぼくたちは江戸時代の生活に戻るという精神的決断が可能であるはず。しかし、それはジェミー・ボタンが示したように不可能なのだ。

テクノロジー(技術)はよく生き物である、と言われる。確かアンドレ・ルロワ=グーランも『身ぶりと言葉』のなかでそのことを言っていたと思う。ぼくはこの指摘に立って人間(人類)はそのテクノロジーという生き物と相互に共存・依存している、と考える。ぼくたちは結局テクノロジーで汚した地球をテクノロジーでしか救うことができない。

ジェミー・ボタンの話はインディオの悲しい話だけではない。ぼくたち人類に降りかかっている問題同一線上にあるのだ。

ボタンの話

この映画でボタンに注目がいくのは先に書いたジェミー・ボタンだが、これもまた先に書いた死のキャラバンの遺品としてボタンが登場する。

この映画における死のキャラバンは拷問によって死んだ遺体に鉄製のレールをくくりつけ麻袋をかぶせ、ヘリコプターから海に投下するという手順が示されている。そのため、海には最も腐食に強いレールが錆びながらも残存しており、それの回収作業も描写された。

そのレールは遺品ではないが、誰かが殺され誰かが投棄されたことを示すメッセージ性の強いモノだ。

そしてそのメッセージの塊であるレールに、違ったメッセージをもつモノであるボタンが付着していた。これは遺品である。

この映画ではレールとボタンの意味が解読される。このレールに付着したボタンと先のジェミー・ボタンの話がつながり、ふたつのボタンは同じメッセージを発するという。それは「奪われし者たちの歴史」。そしてそこからモノに秘められた歴史が読まれる。

レールには、レールを作ったひと、敷いたひと、それに乗って移動したひと、切断し地面から取り外したひと、そして、拷問をしたひとされたひとを通して、遺体にそれをくくりつけたひと、ヘリコプターで遺体を運ぶひと……。

ボタンは拷問され殺されたひとの最後の遺品だ。このボタンは通常のボタンとは違った意味をもつ。

ぼくが考古学に注目しているのはまさにここにある。考古学は人類が残したモノを解読する学問だ。そしてなぜそれが可能かは、ぼくたち人間が意識無意識的にモノに意味やメッセージを託しているからである。そしてこれからもぼくたちはモノに囲まれそれに意味を託し続ける。であるなら、考古学はとても大きな学問になる。多くのことを説明できるはずなのだ。

ただし、ただモノから意味やメッセージが発せられるわけではない。ぼくらはモノから何かを得るために、そのモノの奥にある背景を知らなければいけない。

この映画で例えるなら、海にいくつもレールが投棄されている。という状況だけでは、ただの自然破壊と捉えられかねない。しかし、そこに死のキャラバンという背景が加わるとそのレールに込められた意味やメッセージが解読できる。いや、正確に言えば人間がまたそのモノに意味を与える。

ぼくはこの人間の意識無意識的な行為を色眼鏡として提供していきたいと考えている。その点でこのドキュメンタリー映画『真珠のボタン』は見事に色眼鏡を提供している。

その色眼鏡で見える景色はとても残酷なものだ。しかし、世は残酷なものばかりではない。なんとなく感じる美しさがある。ぼくはそのなんともない美しさと残酷さへ進んでいこう。

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「ひとりの木、考古学」は、考古学的な視線を現代に生かすことを目的としています。

考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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