日構.4 批判の批判という矛盾を抱きながら

少し強い言葉になってしまうかもしれません。この投稿は批判を批判しています。とても矛盾した内容でしょう。しかし、今の世界の批判をぼくは、「暴力的」と感じます。

世界のすべては正反の対立になっています。これはコロナに始まったことではなく、ぼくの組み立てた歴史では、やはり反原発運動からその波が続いているような気がします。その対立構造をコロナはとても深めている。

ぼくは、常日頃おおくのひとが対立構造の創出に専念していることへとても強い不安感を持っています。

これは、ぼくのBTSに関する投稿、捏造事件に関する投稿でも発露していることと思いますが、ぼくはその対立構造を乗り越えた状態、それは対立し合うものが過激ではない状態で維持され、議論できるように興味を持っています。

自分で言うのもなんですが、それはぼくが普通のひとより感受性豊かで共感性が強いからです。ぼくは反対者の意見も賛成者の意見もなんとなくわかる。だから、どうにかしてそのふたつが接着できるような立場をつくりたいと考えています。

しかし、世界は正反の対立が煽られ、現在話題のコロナウイルスに関してもその対立構造の原動力になっています。

感染者と非感染者、政治家と国民、親安倍と反安倍、自粛と遊び。

ほんとうに対立ばかりの生活になっている。ぼくらが日常を生きるとき、いや日常を維持するとき、対立はもちろん発生します。しかし、すべてのひとがこの対立を望んでいるわけではありません。弁証法的な関係を求めているわけではないと言ってもいい。

それなのに、一部のひとたちはそれを強要している。糸井重里の

という発言にそのひとたちが群がり批判している。もちろん批判することはいいことです。しかし、先に書いたように、批判的世界では窒息してしまうひとがいることも事実です。

それを理解せず、批判しそれが正義であるという鋭い剣を振りかざすことは、ぼくは暴力に近いと感じます。

おそらく、いま歴史的に否定してきた全体主義や独裁性の効力の復活、人間を拘束することの復活により、ひとびとにある恐怖心が生まれている。そしてそれは、より善い未来のための歴史がより善い未来のために否定されて、歴史そのものが否定されていることを示す。

そして、このときだからこそ批判が必要だと考えることでしょう。ぼくも学問的空間にいたからそれはわかります。しかし、人間にはいろんな思想信念がある。その批判というものを好まないひとがいる。もっと抽象的かつゆるやかな力の波を信じているひとがいる。それを忘れてはいけません。

 

繰り返し言いますが、批判は大切です。しかし、批判はそのひとの人生をある程度理解して行うべきです。なぜ、このひとはこんな考え方をするのか、という背景への問いかけのもとに批判は成り立つとぼくは数少ない研究者的生活の中で理解しました。だからこそ、自伝や自分語りの部分をより大切に読まなければいけない。

そして、そのひとの人生を理解しようとするには時間が必要です。しかし、今のSNSとくに、Twitterはリアルタイム主義ですから、まずもってシステム的に批判が成り立たないと感じます。

Twitterではそのひとの人生が見えないのです。そしてなにより、ワンタッチで批判的文章が拡散されることは批判とは程遠い浅はかなものでしょう。そのエビデンスも確認せずただ感情に流されてしまってはいませんか? とても不安です。

Twitterはぼくが知る限り現在、感情増幅維持装置になっている。それでも主張し批判したいのならばTwitterという空間ではなく、感情が増幅することない、もっとあまりものの時間が充満した空間を作るべきです。

まずもってTwitterというシステムはアメリカの風土によって作られたシステムであり、高度な相互批判もまた西洋の風土によって作られたことを理解する必要もあると感じます。

 

ぼくは、戦争を防ぐ手立てとして従来の歴史がまったく役に立たないことをこのコロナショックで深く理解しました。そして、ぼくの人生から言えば批判こそ戦争の動力源であることを知っている。

ぼくは今後どう生きるべきかわかりません。しかし、抽象的なゆるやかな波がもつ力を信じていますし、あまりものの時間と空間を作りたいと考えています。そしてこのブログがそれになることを祈り努力します。

おわりに少し強い言葉を書きます。書きたくありませんが。

ぼくは対立し批判することが善いとされる雰囲気に支配された、言い換えると政治的世界や学問的世界が日常に降りた世界にいるつもりはありません。ぼくはそんな世界のために音楽を愛し、文章を愛し、ひとを愛しているのではありません。

今すぐ行動、今すぐ批判、今すぐ署名というリアルタイム主義的な感情煽動と批判こそ正義であると言い、分断をただ煽ることに対してぼくは深く深く不安を覚えると同時に申し訳ないのですが軽蔑心も抱きます。

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