日常という構図.3 屠殺について

ぼくはあまりこういう文章を書くのが好きではないのですが、少しきっかけがあったので書くことにしました。

ぼくは前々回、日常という構図という投稿で、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』について書きました。そしてそのとき彼がビーガンであることも書きました。

『サピエンス全史』にはいたるところに動物、とくにひとの口へ運ばれる動物に関する文章がちりばめられています。そして少し前にもビーガンと堀江貴文のTwitter上での論争もあったし、最近、日本でも屠殺に関する好奇心が高まっていると思います。これはいい傾向ではある。

そのとき、考えたが動物の幸福です。そこでYouTubeで屠殺の動画をみました。どこの国のものかわからないけれど、数多くの動物が屠殺される動画です。

とり、ひつじ、うさぎ、うし、ぶた、が死んでいきました。

その動画以外でも、ぼくらのみのまわりでは子牛に与えられないミルク、ひよこにならないたまご、さかななどがぼくらの口に半自動的に運ばれてきます。まるでベルトコンベアーにのった部品のように。

ぼくらはこの屠殺にどう向き合うべきなのでしょうか。ぼくは肉のおいしさを知っている(この投稿を書いているその日の夕食も牛肉だった。)。だからビーガンになることはできない。そしてそんなひとが多数を占めている。この状況からぼくらは何を得、何を考えるのでしょうか。

ぼくが思うに、その答えを模索することをぼくを含むひとは拒むでしょう。ぼくらはいましか生きられないのだから、いま懸命に生きなければいけない。だからこそ、それを拒むのでしょう。

ぼくらの国、日本にはいつからか「いただきます」と「ごちそうさまでした」を言うようになりました。数年前まで週刊少年ジャンプで掲載されていたトリコという漫画は、このふたつのことばの大切さが啓蒙される内容でもあった。そして多くの日本人はこのお言葉をつかって、多くの動物の犠牲に感謝する。それこそが犠牲への償いだと感じています。ぼくもそうです。

しかし、もうひとつ考えなくてはいけないことがあると、屠殺について考えたときおもったのです。

それはそのふたつの言葉で救いきれない動物たちの生活と幸福です。

ぼくはいま一匹の犬を飼っています。犬種はトイプードルですが、もう年老いて目も白く濁っている。しかしまだ元気です。しかし、毎日彼をなでるとき、残り少ない日々を感じます。そしてその残り少ない日々をどうにかして幸福に過ごし、幸福に死んでいってくれるように意識している。

ぼくたちはその意識を、口に運ばれる動物たちにむけることができません。ぼくらはその動物たちがどんな顔していたのかしらない。そしてペットは家族ですが、その動物たちは動物であり、食料になるからです。

「いただきます」、「ごちそうさまでした」では救えない背景がここにあります。

ぼくたちは動物の犠牲に感謝することはできる。しかし、ぼくらは動物の幸福を願うことができないのです。

ぼくらは今しか生きることができないのだから今を懸命に生きるべきだと思います。そしてより善く生きるべきだとも思う。

そのとき、動物たちの犠牲とその背景にあった、そしてこれからあったかもしれない幸福を想うことは、より善く生きるひとつの方法なのかもしれません。

そんなことを考えた日でした。

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