BTSから考える日韓の歴史問題(補足)

まず、

前回、BTSの投稿を書いてから、まだBTSの海に沈潜している。そんな中、いろいろと付論として書いておこうと思うことがあるので、ざっくばらんに書いておきたい。書くことはアイドルとアーティストの違いや、先の投稿で書いた日韓の歴史認識の溝がなぜ埋まらないのかという理由の補足など。

じつはこの文章、本編よりも長くなってしまった。なので、読みたいところだけ読んでもらって構わない。特に最初の、アイドルとアーティストの違いはただぼくの考えを書いただけなので、読まなくていいかもしれない。

次の問題意識の補足と、ジェンダーの問題は先の投稿と繋がるので興味がある人は読んでほしい。最後のまとめは、問題意識の補足とジェンダーのまとめになる。

2020/04/08に諸々書き換え、書き足しをした。内容に変更はなし。

まずアイドルとアーティストの違いについて書こうと思う。

アイドルとアーティスト

ぼくは考古学の状況へ適応できずにその世界を去った。たぶん生涯年収の大半を捨てていると思う。そんな賭けをしてまで去らざるを得なかった理由は「考古学のアイドル化」にあった。現在の考古学はとても狭い世界で脈絡を保ち続けている。考古学の成果は市民に還元されるべきである、と考古学者は言うが実際は全くの嘘で、考古学の知が還元されているのはごく一部の市民である。

ぼくはその一部の市民を考古学ファンというが、この考古学ファンはいつも考古学へ「わたしたちが望む考古学を供給してください」と圧力をかけている。ぼくはこの状況をアイドル化と呼ぶ。

具体例を挙げれば縄文ZINEというフリーペーパーがある。そしてそのnoteで「縄文ファンとしての考古館への提言」(2019)という投稿がある。この提言はぼくが危惧していることそのものであり(特に「5・土器の展示キャプションに型式名を」にそれが端的に表れている。)、考古学がその提言を飲み込んだときに、考古学の公共性は限られた、そしてオタクに囲まれたアイドルとしての世界しか残されないと考える。

また、考古学関係者はファンがいなくなったとき、考古学が存続できないと勘違いしているからそのファンへのアピールを怠らない。ぼくはそんなことに自分の人生を使うのはごめんだと思ったから、その世界を去った。

ぼくがこの背景をもっていることをまず理解してほしい。

そしてBTSをみてみる。

ぼくは先日の投稿で、BTSを直接アイドルと書いたのはアーティストと並べて一度しか書いていない。その理由はBTSの世界的人気をアイドルとしてとらえるべきかどうか迷っていたからだ。そんな迷いをもちつつここ数日BTSの世界に沈潜していくと、BTSはアーティストというよりはアイドルという側面が強いと考えるようになった(先の考古学への文章からすると、ぼくがBTSを矮小化して非難していると思われるかもしれないが、そうではない。ぼくが考古学へアイドル化していると批判するのは、考古学が税金が大量投入された世界であり、その関係者たちが高邁な衣でぼくが書いたような欺瞞を隠しているからだ。BTSやジャニーズやAKB48のようなアイドルは世界に存在すべきである。)。 

ぼくがBTSをアイドルだと考える基準はひとつしかない。

それはBTSファンが名称化され、それをBTS自体が有効活用していることである。ここ最近社会的地位を得てきたYouTuberの一部にはファンに特定の名称を与えることが多い。有名どころで言えばFischer’sのファンは「ウオタミ」と呼ばれ、ゲーム実況者であるポッキー/PockySweetsのファンは「ポキナー」と呼ばれている。これと同様にBTS のファンにもARMYという名称が与えられている(なぜファンに名称が与えられるのかについてはいくつか理由があるだろう。たとえばサーチしやすいことやファンの可視化などがある。)。

ぼくがこの点に注目するのは、先のの背景とも相関するが、アイドルとは一定のファンと非常に強いかかわりをもつ個人または集団だというぼくの考えから来る。これはぼくが突飛に考えたことのようには見えないはずだ。ぼくたちは日ごろそのようにアイドルをみている。

それと反対に、アーティストはアイドルよりは熱心なファンが少なくその周りにふわふわとした関心を持ったひとびとが多くいる。たとえば、米津玄師が好きで好きでたまらないひとより、たぶん、米津玄師なんかいいよね、とか、lemonよくね、とか考えているひとのほうが多い(米津玄師には「米民」という名称を持つファン層があるが、これはファンによる自発的名称であると考える。また、アイドルと呼ばれる個人または集団で、ファンの名称がないことも往々にしてある。それについてはファンの状態やアイドルと呼ばれる個人または集団を観察し決定するしかない。)。

なんとなくファンであるひとが多ければ多いほど、アイドルよりはアーティストに近いと思う。

この視線に立つとBTSは並々ならぬアイドルということになる。アメリカのビルボードアルバムランキングに四作品連続一位を記録し、グラミー賞のステージにも立っている。その点を考えるとアイドルよりアーティストと呼んだほうがよい気もするが、BTSがもつシステムは限りなくアイドルに近い。BTSはとてつもない数のファン(ARMY)を抱えた歴史上類をみないアイドルであり、歴史的金字塔のひとつである。

21世紀のグローバル社会におけるひとつの到達点として評価できるだろう。

あの投稿の問題意識補足

日韓の歴史問題について書いたことで、ここ最近の好奇心が「歴史問題」や「歴史意識」に傾いている。ほんとうなら今頃、網野善彦や黒田日出男などの著作に深く潜っているはずだったが、、、

そこで、その問題に関する著作を2冊読んだ。ひとつが阿部謹也の『日本人の歴史意識―「世間」という視覚から―』(2004:岩波新書)、もうひとつが大沼保昭(聞き手:江川紹子)の『「歴史認識」とは何か』(2015:中公新書)。

 

後者には「対立の構図を超えて」という副題が設置されているため、ぼくの意見と共鳴性が高い。そして何より、著者である大沼保昭のバランス感覚は脱帽もので、「「歴史認識」という論争的なテーマに、理屈だけではなく人間の感情、情感の面も大切にしながら、極力「フェアであること」をモットーに取り組んでいきたい。」(ⅶ頁)と述べられ、それが実践されている。これには相当な精神力と忍耐力が必要だろうな、と感じた。そして歴史的過程に沿って、東アジア諸国特に中国と韓国がなぜ日本へ強い被害者意識を持つのかを説明していて、この説明もとてもクリア。また文章もとても明晰だから、ぜひ読んでほしい。

ぼく自身も先の投稿で、書きたかったこと、考えたかったことは「無限に首を垂れる」という一辺倒な状況をどうにかして、変えることはできないかということ、そして、日韓の対立を第三者として捉えることができれば、良い方向に向くだろうということだった。韓国は魅力的な文化をたくさん発信している。だからこそより善い関係を願った。

第三者としての視線とは、先の投稿で「変質した責任」や「二面性をもつ哀れみとそれに揺れる姿」として書き記したことだが、第三者的視線はぼくがこれまでずっと大切にしてきた視線になる。

これは、とても大切なので少し道草を食おう。

例えば、去年ぼくが投稿した論文で2000年に起きた「前中期旧石器捏造事件」に歴史的評価を与えるべきと主張し、論文で書けないことについては、このブログの「前中期旧石器時代捏造事件へのぼくの視線」という投稿で色々と書いた。その中で捏造事件を「知らない世代」がいかに評価するかがもっとも重要であり、それこそ捏造事件を歴史問題として捉えることができると考えた。

この「知らない世代」という考えが、先の投稿の「変質した責任」という言葉とぼくの中ではクロスしている。

ぼくたちは当事者でない限り、真なる責任を負うことはできない。しかし、よく人間は当事者でもないのに、怒り狂い冷静さを失う。

ぼくはそれを去年の池袋での交通事故で痛感した。

僕らはあの凄惨な事故に対して、できるだけ冷静に問題解決の糸口を探すべきだったのにTwitterでは、怒りが爆発し「高齢者の免許を取り上げろ!」や「運転免許習得に年齢制限があって、高齢者にはないのはおかしい!」と高齢者ヘイトとも取れる言葉や「上級国民」というもはや陰謀論的な臭いを発する言葉が乱立した。

もとい、あの事故の加害者である飯塚幸三の健康状態管理のずさんさには呆れはするが、その怒りが一般化され、高齢者をひとまとまりにする言動が多かった。ぼくらはいま、加害者が被害者の二項対立のどちらに立つのかという択肢しかない世界にいる。

しかし、ぼくらはあの事故において圧倒的に第三者であったはず。しかし、いま第三者というある意味優柔不断な立場は忘れられていて、なにか行動を起こすことそれが正義となってしまい、冷静な議論ができなくなっている(今回の新型コロナウイルスにも同様な状態が認められる)。

だからこそ、今回のBTSを素材とした日韓関係において「変質した責任」という「責任」を見出し、捏造事件において「知らない世代」としての「責任」を見出した。

では、本題に戻ろう。

ぼくたちはここ数年で、大韓民国国民をひとりの人間であると感じられるようになり、そのひとつひとつの思いの中に深い溝があることもわかってきた。大沼保昭は先の著作のなかで「俗人」、「普通の人」(58頁)がどう感じているのか、という視点を大切にすべきだと幾度となく述べている。そしてだからこそマスメディアの責任の大きさを自覚すべきであることも指摘している。この大沼の著作に準じるなら、韓国のマスメディアに一定の不備があることは否定できない(第3章から第5章参照)。

そしてよく、この問題は政治化される。ぼくはこれにも反対。

ぼくらは政治の中で生きてはいるが、ぼくらの生活の決定がすべて政治的な決定でおこなうべきではない。政治はある程度、利益不利益の中で決定されるし、敵と味方が明瞭だし、ときに強硬的な決定や批判が必要になる。これらはぼくらの生活の中でも必要なことだが、ぼくらはもっと優柔不断な生活を送っている。

BTSの問題もそう。メンバーに日本から見て歴史認識的問題があるからと言って排除するべきではない。ぼくたちは日常的にそれを折り合って生きているはずだ。だからこそ、精細な決定に至る過程は不明だが2018年11月の朝日テレビ「ミュージックステーション」へのBTS出演取り消しはことの動態を負の側面へと押し出してしまっている。言い換えれば政治化してしまった。

ぼくらはもっと優柔不断的に生きることができる。それこそが、ひとを人間として認め新たな物事への先駆けとして位置付けることができる。

そしてぼくらは加害者であった過去とその変質した責任を確認しながら、ぼくらの倫理がもつ弱さを受け止め、韓国や中国などの東アジア諸国などなどへの哀れみも捨てず保持し、人間として人間を相手にしなければいけない。

ぼくは先に、阿部謹也の世間に関する著作を挙げた。この本は日本には西洋的な個人はなくその代わりに世間がある。というもので、その世間からいかに脱するかによって近代化できると考えられている。ぼくはこの本の分析に賛成していて、ぼくも日本は西洋的な完全な近代化ができていない特異な国と思う。

「世間」とは阿部謹也の言葉を借りると「呪術的な関係を含ん」(13頁)でいる。例えば友引に葬式をやってはいけないとか、結婚式は大安がいいとか、たくさんあると思う。この「世間」を意識しなければ日本的な歴史は構築できず、その世間はいまも(この本が書かれたのは2004年で今とは若干社会状況が異なるが、ぼくの目にはまだ世間は見えている)生き残っている。というのが阿部謹也の考え。そしてぼくがこの本を引用するのはこの世間こそ韓国や諸国との政治的対立を深めると考えるからだ。

この「世間」の暴走をぼくはとても嫌っている。だからぼくはいろんな文章を書いているし、大沼保昭の主張も世間によってダメージを受けている。たぶん、韓国にも世間と似たシステムがあるのかもしれない。Google翻訳で世間を翻訳すると「세상」と出てくる。これを日本語に翻訳すると「世界」になる。日本語の「世間」とどんな関係があるのかどうかはぼくにはわからないが、もし、その「세상」が日本語の「世間」と同じであるなら、また多くの問題が生まれてくる。これについても考えなければいけないが、いまそれだけのキャパシティがぼくの脳みそにはないので、今後できるときに考えたい。

ちなみに、ここまで書いてきた「世間」をホセ・オルデガ・イ・ガセットの「大衆」(『大衆の反逆』1995:ちくま学芸文庫)と読み替えてはいけない。オルデガは無責任な状態を享受する群を「大衆」と呼ぶのに対して、阿部謹也は先述したように「呪術的な関係」に注目している。

 

見落としたジェンダーの問題

日韓の歴史問題に関してぼくの先の投稿では、単純に言って韓国の兵役を基本とする愛国心と兵役がない日本、そして被害と加害の対立は先祖に対する哀れみの二面性によって深刻化していると考えた(先の投稿では当たり前と思い書いていないが、韓国側にも自分たちの先祖への哀れみがある。そのため先祖への哀れみの対立としても理解できるが、日本側が抱える哀れみは韓国側の哀れみより「弱さ」を意識しなければいけない。)。

しかし、前者について大きな誤りがある可能性があることに後日気が付いた。これはぼくの男性であることの限界かもしれないし、BTSという男性グループを扱ったことが原因なのかもしれない。そう、ぼくが検討しなかった問題はジェンダーである。

ぼくは兵役こそ愛国心を高めていると、注目したが、この記述では女性の愛国心が説明できないかもしれない。現在、女性には兵役は課せられていないらしいが、近年、女性も男性同様に兵役が課せられるべきだという風潮もあるらしい(参照)。

このジェンダーによって愛国心に違いがあるのか、ぼくは具体的なデータは知らないが、TWICEのメンバーが慰安婦支援をおこなっているファッションブランドMARYMONDEの製品を身に付いけていたことも問題になった(このブランド慰安婦のみではなく、虐待被害になったこどもへの支援も行っている。参考)。これをすぐさま反日と呼ぶのは、ぼくが先の投稿で書いた倫理の二面性に気づけていないからで、より冷静になってほしいけれど、やはり韓国では若い女性もその点に関する意識が高いことは理解できる。

ぼくは先の投稿で兵役(徴兵制=男性的側面ばかり)を注目したが、やはり教育やマスメディアの役割も大きいと実感した。

兵役の有無を軸にするぼくの考えは女性的立場を説明できはしないが、男性的立場は説明できると考えている。

まとめ

実は、ぼくは大学に入るとき近現代史を専攻するつもりでいた。なぜなら近現代史は歴史として現代へ容易につなげられると考えたからだった。がしかし、この時期の問題は先述したようにすぐに政治的な帰結をもたらす。そのことに嫌気がさして、そして網野善彦や白石浩之に影響されてより深い場所にある歴史へと転向した。

転向してからは、近現代史への直接的な接触はやめていたし、アイロニーっぽく「知らないです」と無邪気さを突き通してきた。しかし、ぼくが現代をながめBTSを知り、過去の騒動を知ったとき何か書けると感じた。何万年前の出来事をさぐっていた数年前ならとるに足らないこと、と捨てていたと思う。

BTSを知っていくうちに彼らが人間であることをより深く知った。彼らも怒るし涙を流すし友を助けるし笑う。そんな彼らを見て、のちにあの原爆騒動を思い出したとき衝撃を受けた。原爆Tシャツを身に付けていたメンバーであるジミンは顔も中性的で、男性でありながら男性ではないような、アイドル感が強い人間である。年齢もぼくのひとつ下。そんな彼がいかにも主張の強いTシャツを着ていたこと。そのギャップをすぐには理解できなかった。しかし彼らが人間であることを知ってしまったために単に反日だと切り捨てることはできない。ならば考えよう、と書いたのが先の投稿になる。

この日韓や日中の歴史問題が表出するとき、たいていは政治的問題から派生する。そして政治的対立が日常生活の中に降りてくる。ぼくらはそれに惑わされてはいけない。ぼくらはより優柔不断な振れ幅のある決定と対話ができるはずだ。

また、よくこの問題で東京裁判史観VS脱東京裁判史観という対立軸が見出される。

これについてもひとつ書いておくと、この対立から生じる論戦はあまりに愚かな態度で占められてしまっている。どちらも歴史をみていないと声高に発しそれで時間とともに消えていく。とても空しさを感じてしまうのはぼくだけか。。。

このむなしさを解決するためにも、ぼくは「弱さ」を考えた。なぜ、ぼくらは先祖の過ちに目を向けられないのか。とくに極悪非道な先祖ならば簡単に批判できる。絶対的悪が作れるからだ。日本において絶対的悪を見出すのは少し難しいことは確か。

先祖を悪と切り捨てることができれば、どれだけ楽か。しかし、ぼくらの過去に、簡単に悪と決めつけることができる人物は少ない。おおくのひとは時代に翻弄された。ぼくらはみなそれをなんとなくわかっている。だからそこに哀れみが生まれて、問題がややこしくなり、より感情移入しているひとは、過去を違った目線で見つめた。

ここに自虐史観や東京裁判史観からの脱却を願う思いが生まれる構図がある。

これはぼくらがいまで言う「人間」である限り、ずっと続く問題だと思う。だからこそ、弛まない努力が必要とされるだろう。ぼくらはその努力に耐えるだけの精神力と忍耐力をつけなければいけない。そのための認識の始めとして、「倫理の二面性」に注目した。

そして日韓の問題はこれから先、ますます悪化していくと思う。日本の経済力の衰えと、そこに打撃を与える自然災害によって、日本の自身はみるみるとやせ細っている。大沼保昭も指摘していることだが、もう一度ぼくらの戦後史をながめ、どれだけ善行を積みかなせることができたか、そしてそれで救えていないところはどこかを確認し、未来へ向かうのもいいだろう。

そして韓国は日本の合わせ鏡であることを忘れてはいけない。

ぼくはどれだけ溝が深かろうと、彼ら彼女らが人間でありぼくらが人間であるならば、必ず理解し合えると信じている。これはぼくが唯一捨てることができないものだ。BTSも韓国人も中国人も日本人もアメリカ人もみな人間である。

ぼくらが真に戦わなければいけないのは、人間であることを放棄する動物的感情の支配だ。

最後に、大沼保昭の著作の聞き手である江川紹子の言葉を引用しておく。

「「自虐」でもなく「独善」でもなく、事実と理性とまっとうな人権感覚に基づいて、未来を展望する大沼先生の話は、これだけ深刻な状況にある「歴史認識」の問題に、大いに希望を感じさせるものだった。」(232頁)

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