人間の喪失を防ぐための幸福を

人間であることの幸福。

ぼくは、ほぼ無職寄りのフリーターでなんの権力ももっていませんが、ほんとうにこの負のオーラが決壊しそうなことときに、何かできないかと思い、無名の人物のひとりとしてこの投稿を書きます。

ぼくがこの新型コロナの流行で最も恐れていること、それは人間の喪失です。

皆さんご存知のとおり、いま世界は不断なまでにヒトとモノが動く、グローバル社会です。この形態をもつぼくたちの社会において、新型感染症の流行はコントロールできないことは、少し考えたらわかることでした。しかし、ぼくも含めこのグローバル社会の恩恵を受けているひとたちは、このことに無関心でした。これは、ぼくたちが過去の知識である歴史を現代に消化させることができなかったことの、欠点だと思います。

いつ、収束するかわかりませんが、この新型コロナが収まったときに、余裕をもって多くのひとびとがこの問題を解決すべく力を注ぐことでしょう。

ぼくは先に最も恐れているのは人間の喪失だと書きました。

日本語における人間という表記は、カタカナで書いた「ヒト」とは少しちがった意味を持ちます。

ぼくは、かつて先史時代(文字がない時代)の勉強研究をやり、それなりの努力を続けてきました。先史時代だと、ヒトの誕生そして人間の形成から文明の勃興までを扱うことが多いです。その中で、ひとつの動物でしかなかったわたしたちの先祖が、いつぼくたちがイメージする、道具を作り、自我をもち、家族をもち、タブーをもつような「人間」へと熟成してきたのか、という問いがひとつのテーマとしてあります。

このテーマについてここで詳しく書くことはしません。しかしぼくたちは、この惑星「地球」に生息するあまたある動物のひとつではなく、とても特徴的な生物「ヒト」であり「人間」であることは確かです。

ぼくたち人間は、理性と感情という矛盾した心をもち、ひとを愛し、ひとを憎み、ときにひとを殺し、ひとを助け、何かのために生きることを願いさまよう、ヘンテコな動物。

だからこそ今のような負のオーラに覆われたとき、人間の負の側面が増長され、ただの動物であるヒトに退化し他者を傷つけたり、理性や愛情をもつ人間であることを喪失してしまいます。その負のオーラそのものも人間だからそこ、生じてくるものですが、ということは、それを自覚し可能な限り押さえることもまた可能であるはずだと思います。

3.11のとき、ぼくは高校二年生でした。ぼくは東海圏に住んでいるので、直接的な被害はなかったものの、ぼくのひ弱な感性はズタボロ雑巾にされてしまいました。

人間はどこまでいっても自然に勝てず、ただ押し寄せる波に飲まれ死んでしまう。その無気力さはとても恐ろしいものでした。

しかし、あるときから海の向こうから多くのメッセージが届いたことを覚えています。皆さんも覚えていることでしょう。

サッカーチームが日の丸を掲げ哀悼を向けてくれた。とある教会ではミサが開かれた。アメリカ軍はトモダチ作戦を決行してくれた。多くの国々からひととモノが送られた。

ぼくは、これらの美しい行動で人間であることに誇りを感じました。ぼくたちは動物で愚かです。しかし、ときに頑張って助け合うことができる!

今回のコロナに関して世界中が戦っています。だからこそぼくたち無名なひとびとが頑張らなくてはいけない。

この希望と誇りをぼくはときどき手から落としそうになりますが、まだ握っています。

今回のコロナについては、武漢発祥と言われていることもあり、3.11よりも人間関係における加害被害の関係が少しばかりわかりやすく、だからこそ、感情的になってしまうのはわかります。

しかしながら、ぼくたちはグローバル化を止めることはできないところまで来ているし、これから先も今回のような新興感染症は起こり得る。

そんな世界で、毎回、負のオーラの決壊間際まで人間であったはずのぼくたちが退化していては、世界がもちません。

ぼくたちはより冷静に人間であることを自覚すべきです。

先日、志村けんさんが亡くなりました。とても悲しい気持ちです。しかし、彼はぼくたちにとても笑い切れないほどの「笑い」を作ってくれました。下品なものもありますが。。。

でもぼくたちはそれをみて笑えます。倫理的ではない行為にも笑える。ということは、ぼくたちはあの、ひょうきんものの倫理観のなさを馬鹿げたものとして受け取ることができている。

これは、ぼくたちが節度をもった人間だからできることだと思います。

いまいちど、志村けんさんのコントからぼくたちが人間であることを再確認してみてもいいでしょう。

そしてその再確認の果てに、真に人間たるぼくたちが慈悲をもって多くのひとと手を取り合い、コロナと戦うことができると思います。

戦うということは、無理な自粛に徹することではありません。政治家やあるひとに悪辣な言葉をかけることでもありません。失業者が増えれば自殺者が増えると想像することは容易ですから、経済が壊れない限りの自粛が必要であると考えます。

それでも、失業者は出てしまうでしょう。そしてそのひとは死んでしまうかもしれません。もしそのひとが近くにいるならば、ぼくたちが人間であることを思い出し、手を取り合いましょう。政府だけでは救いきれないひとたちを救えるのは、コメディアンやアーティストや文化人のみではなく、大衆も含まれているはずです。

もう一度書いておきましょう。

ぼくたちが今もっとも恐れなければいけないのは、コロナに屈することと、人間が人間ではなくなることです。

実はぼくもかつて、そして現在もよく自死について考えることがあります。これまで偉そうなことを言っておきながら、ぼく自身も理想とは程遠い、弱い人間です。これまで多くの失敗を重ねてきましたし、大学院時代には大きな挫折も体験しました。そして普通に生きることができない自分を恨むこともあります。そんな中で理想が手からこぼれ落ちそうになることもありました。

けど、ここ一年でぼくには死ぬ勇気すらないことを自覚し、生きるなら理想をもって生きよう。と考えるようにしたのです。

だからこそ、はぐれものとしての 償い としてこのブログをやり何か、誰かのためになることをやりたいと感じています。

ぼくはかつて何万年前のことを観察して考える文章にしていました。その経験がこの負のオーラに覆われている現代に何か違った余白地を与えられるように、努力します。

こんなときに理想論かよ! ってお叱りを受けるかもしれません。ぼくはこんなときだから理想論が必要だと感じます。ぼくたちが人間であるゆえんそれを理想によって際立たせたい。それがぼくの願いです。

とりあえず身近なひとの幸福を願い、この弱小ブログが届く範囲のひとたちの幸福を願います。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

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