BTSから考える日韓の歴史問題

歴史をみるために現代をみる

ぼくは「澪標1歴史」と名付けた投稿において歴史について随筆的に語った。

そのなかでは、今しか生きられないぼくたちが歴史を眺めること、それは現代の理解だとも書いた。だからこそ、歴史をながめるひとたちは、それと同等に現代を眺めなくてはいけない。

ぼくもそれを努力している。できる限り現代社会に目を向け、情報を集め考える。その起源を特定したければ、過去を眺めるといった具合に。

そのなかで、ここ最近興味が出ているのが韓国だ。もともと旧石器時代研究をしていたから、朝鮮半島に目を向ける機会は多かった。いまはその興味ではなく韓国の現代文化について少し好奇心が湧いている(これはここ数日のことなのでまだ書籍などには手を出していない)。そして、それを考えると必ず過去の問題を感じざるを得ない。今回は出来るだけラフにその問題を取り上げる。

韓国への好奇心、とくにK-POPへ

韓国の現代文化の進展は第三者から見ても著しい進歩を記録していることは確かだ。もっとも最近で言えば映画「パラサイト」がアカデミー賞の作品賞を受賞したし、K-POPグループとくに男性グループBTS(防弾少年団)の躍進は目を見張るものがある。

映画「パラサイト」は少し怖いらしいのでまだ見てはいないが、BTSについてここ最近頻繁に情報に接するようにしている。そうするとK-POPの世界的地位がなんとなくわかる。

ぼくがまだ中学生ぐらいのとき、今から10年前ぐらいでは、それより前の冬ソナブームに続いてK-POPブームがあった。東方神起やKARA、少女時代などが流行っていた。そのときの流行と今日のBTSを中心とする流行りとは規模が違う。BTSはアメリカの「ビルボード200」で初登場1位を2度獲得。これはアジア圏のアーティストでは史上初、非英語圏の言語で制作されたアルバムという括りでも12年ぶりになるという(参考ページ)

ぼく自身もここ数日BTSの音楽に潜ってみたし、その背景に関して列挙されている特質についても色々と経験をしてみた。

まずBTSの大きな特徴として、キレキレなダンスパフォーマンスがある。とくに楽曲「Idol」(2018)や「ON」(2020)にその結実を見ることができる。日本の感覚で言えばEXILE系のダンスをジャニーズ的な美少年たちが踊るというイメージか。

ジャニーズ的と言ったとおり、BTSのメンバーは7人いるが、なかにはとても中性的な顔立ちをもつひともいる。また、アイラインやアイシャドウ(メイクには詳しくないので間違っていたらごめんなさい)、カラーコンタクト、派手な髪色によって美的様相を格段にアップしている。服装についても日本の一般的アイドルや男性グループに見慣れたぼくからすると少し特徴的だ。

楽曲に関しては社会的メッセージや抑圧された若者たちへのメッセージがふんだんに歌われているし、電子音を強調する旋律も多いため、聴くものを一種の興奮状態に誘うのかもしれない。そしてメンバーが作詞作曲に携わったり、7人いる各メンバーに、一曲の中で単独のパートが設けられているなど、楽曲に対する姿勢も評価されているんだろうと思う。

また、SNS戦略も巧みで、Twitterでの情報発信や、YouTubeでの楽曲配信では多くの曲が1億回以上再生され、ダンスのレッスン動画もアップされている。最近日本のアイドルグループ「嵐」を中心として幾つかのジャニーズグループがSNS戦略を開始しているが、K-POPの影響が大きいのだろうな、と思う。

これらSNS戦略の中で最も特徴的なのかVLIVEというコンテンツだ。これはK-POPアーティスト専用の生放送・動画配信プラットフォームで、BTSを中心として多くのアーティストが突発的に生放送をおこなっている。ぼくもこのサービスを利用してみた。それで特に驚いたのが字幕機能だ。

多くの生放送はアーカイブとして保存されているので、韓国語の彼らの発言に対し字幕が数日(おそらく2日程度)で挿入される。その言語も多彩で、日本語を始め英語、中国語、スペイン語、インドネシア語などまだまだある。これらは自動翻訳とファン翻訳があり(運営による翻訳もあるのか?)、自動翻訳についても、ぼくは韓国語がわからないが、おそらくそれほど間違いはない。

日本ではかつてAKBグループが「会えるアイドル」として一世を風靡したが、K-POPアーティストの場合はこのライブ機能によって「日常が垣間見えるアイドル/アーティスト」となった。

正直、よく日本のメディアはガラパゴス化していると言われるが、やっとその根拠が分かった気がする。日本がかつての文化、京都、和食、縄文を観光資源にしている間に、韓国ではより現代的な文化が創造され、それがアメリカを始めグローバルなレベルまで押し上げられている。日本の現代文化はこの韓国の波に抗うこともできないだろう。

以上がぼくみたBTSの魅力だが、ぼく自身BTSのファンというわけではないので、いくらか小さな間違いがあるかもしれないが、大方このとおりのことだと感じる1)ここまでのぼくの考えを聞くと、アメリカで評価されることが最終目的であるという考え自体が下らないと思うひともいるだろう。実はぼくもそうだ。ぼくは今の時代の特徴でもあるSNSから比較的距離をとっている。しかし、アメリカで生まれたGAFAがそしてTwitterが世界を支配したこのとき、アメリカで評価されることが世界的指針から言ってあながち間違いではないことは、ぼくからみても明らかだ。そして何より、日本の現代文化が韓国の現代文化を真似するべきとは言わない。しかし、韓国をひとつの文化的指標としての合わせ鏡としてみてみることには意味があるだろう。

少し道草を食うが、K-POPでBTS以外に驚いたことがある。それはTWICEという女性グループとNCT127という男性グループのことで、前者のメンバーの国籍が韓国、台湾、日本となり、後者のメンバーが韓国、アメリカ、タイ、中国、香港、マカオ、台湾、そして日本と多様化している(各グループのWikipediaを参照してほしい。TWICENCT127)。

まさかこんな、さまざまな東アジア諸国のひとたちをひとつのグループとして包括できる時代になっていることに驚いた。しかし、これらグループに関してまだ調べていない。

BTSが発露した日韓の歴史問題

BTSの話へ戻り本題に入ろう。

ぼくがBTSの世界的ヒットを目の当たりにして、また、それを調べるにあったて感じるのはグローバル化が進んで韓国と日本の過去のわだかまりが相当弱まったと思いきや、そうではないこと。これは2018年のBTSのメンバーのひとりが原子爆弾によるキノコ雲の写真を使用したTシャツを身につけ、ある一定層の日本人から反感を買い、出演予定であったテレビ朝日のミュージックステーションへの出演が中止されたこと、ナチスの紋章を模した衣装を身につけパフォーマンスをしたことに対するサイモン・ウィーゼンタール・センターからの謝罪要求が挙げられる。このふたつに関しては所属事務所から謝罪が公表された。

ぼくが扱うべきはやはり原爆についてだろうと思う。これに関するさまざまな記事を読むと韓国の状況からして、もしかしたら韓国では普通のことなのではないか、と思うことすらある。そしてそれは、おそらく反日という感情よりは母国に対する愛国心からくる作用なのだろう(BTSのWikipediaにある文化評論家リー・テグァンの記述をきっかけとする。原典確認済み。)。そして日本の一部のひとたちはこの韓国人による韓国への愛国心を反日とよび、日本人への日本に対する愛国心を反韓と呼ぶ。

これは、ぼくが思うに間違いでもあり間違いではない。だからこそこの問題が複雑になっている。これについては、確実に理性のみ話ではないのだ。

ぼくらが考えなければいけないのは、韓国の兵役だ。

韓国国民の男子はほぼ全員兵役を果たす義務がある。この効果は絶大であると思わざるを得ない。韓国の男子は必ず、最低でも2年間、国のために働く(参考ページ)2)編集2020/03/31:現在は各軍での兵役期間が短縮されており、最低18ヶ月も可能とのこと。参考ページ。この制度が浸透した韓国にたいして、兵役がなく平和な日本、そしてその国民がすぐには理解できない感情(愛国心)が韓国人に根付いていることは理解するにたやすい。

そして、その愛国心の土壌に立って彼らが日本からの独立の象徴として原爆を持ち上げるのには、彼らなりの意味があるのだろう。

しかし、日本人のごく一部はこれに猛烈に反対し、そしてぼくも含めた日本国民の多くは原爆を象徴とすることに遺憾の念を感じるのは事実だ。

日本にとって原爆は一瞬にそして短い間に多くの人の命を奪った傷であるものの、韓国にとっては解放の兆しなる3)ぼくはBTSの問題に焦点を当てているため、日本が降伏し韓国が独立するきっかけを原爆に求める。それに対し古谷経衡は日本降伏はエビデンスとして「ソ連対日参戦」が降伏のきっかけであると言う記事を書いていて、とてもわかりやすいので読むと面白い。ただ、これに関してエビデンスではなく韓国人の過去解釈の問題であることは、注意したい。(参考ページ)。

この立場による意見の不一致。そしてこれが先述したように理性のみではなく感情による増幅が可能であることからして、この問題を解決するのはとても難しい。とくにぼくらの日本は二発の原爆は除くにしても、日韓併合に至るまで、そして日本降伏までの韓国に対する日本側の態度に関しては加害者であり、韓国は被害者である。この構図は絶対に覆らないだろう。これに業を煮やして、あるひとびとは過去を違う視線で解釈し、加害者ではあるがそれは仕方なかった、と主張する。ぼくは、これを、加害被害が明瞭な場合に加害側が考えつく自己保持方法のひとつだと考えるし、それは原理としてよくあることだと思う。

しかしながら、被害者側はそれを認めないことも事実だ。被害者は被害者としての理由を欲する。でなければ、あの被害を正当化できない。その苦しみは加害者が加害を認めることによる苦しみよりも強い痛みだろう。

そしてぼくはこう思う。それは、ぼくが日本という生湯に浸かりきったからかも知れないが、ぼくらはもう完全な加害者としての責任を果たすことはできない、と。

親離れ子離れがあるように一定期間を過ぎてしまうと、責任を負おう質が変化していく。おそらく、被害者側はその責任離れが加害者よりも遅く、そして、その加害者側の責任離れ(責任の変質)に腹を立てるのだろう。そしてまた話が大変になっていく。

そんな状況を踏まえてぼくらは韓国とどうつながっていくべきか。BTSや韓流ブーム、韓国料理、美容を始め大衆文化の交流はグローバル化によって不断なまでに深く、そして、早く行われている。そしてぼくらはその恩恵を受けている。だからこそ、「韓国と断行するんだ!」という意見はあまりに現実にそぐわないし、倫理的にも危うい。

ではどうする。

韓国はぼくが考えるに兵役を持っていることによって日本とは違った感覚を抱いている。むろん教育も大きい。この違いをどう乗り越える?

ぼくが考えつく、それをより善くするひとつの方法は、加害者側の弱さを加害者ができるだけ理解するよう努めることだと思う。

加害者側の弱さは加害の記憶の風化とそれから始まる責任の質の変化もそうだし、無宗教と言われる日本人でも捨てきれない先祖崇拝からくるものだと思う。

後者から先に、

後者はかつてたしか2chの創始者、西村ひろゆきが何かで言っていたことだが、ぼくらは神は信じないかもしれないが、先祖の墓を蹴り倒すことはできない。ということ。

ぼくのひいばあちゃんの確か兄は、沖縄戦で戦死している。だから生家には軍服を着た遺影、墓石には死後与えられた階級が刻まれている。

極端に言って、ぼくはその墓を蹴ることはできない。

それは、哀れみであり倫理である。それを蹴り飛ばすまでに日本人は、少なくともぼくの家族とぼくは、過激に責任を追及できない。先に挙げた前者「責任の変質」は、ここに始まるのかもしれないと感じる。

ぼくらがあるひとへ哀れみを感じるあまり、ぼくらは無意識的に記憶を風化させるのではないか。それはまるで交通事故を起こした加害者と同じように。

ぼくらはその哀れみから、そしてそれを捨て先祖を罵ることから生じるであろう苦痛に目も向けられない。その弱さを自覚することが重要ではないだろうか。

ぼくのひいばあちゃんの兄は、沖縄でどう死んだか知らない。もしかしたら誰かを殺したのかもしれない。そしてもしそうならば、殺されたひとのまわりにも、最愛のひとたちがいたことだろう。もしそうだとして、ぼくはそしてぼくの家族は、ひいばあちゃんの兄を責めることができるだろうか。

ぼくらは加害者であるために被害者へ想いを寄せるために。しかし、それをするにはどうやら先祖への哀れみをまず捨てなければいけない。

日本という環境において、それを決断できるひとはどれだけいるのだろう。少なくともぼくは被害者に顔向けできないほどにそれを感じてしまうのだ。そして先述した過去を違った視線で眺め、先祖たちの戦争責任を解釈することも、内容は違うが根源は同じだろう。

このBTSの一件からぼくら加害者側は自らの弱さを自覚するべきだった。そして許されるのであれば、その弱さと被害者への哀悼を表現するべきだった。もしそれが可能であるならば、ぼくらの未来は変わるのかもしれない。

誤解しないでほしいことがふたつある。それは自らの弱さにかまけて、被害者への哀れみを捨てることを被害者に求めるのではない。言いたいのは哀れみの二面性だ。ぼくらが感じる被害者に対する哀れみと、加害者である先祖へもつ、責任が変質してしまった加害者としてのぼくらの哀れみ。そのふたつの狭間で揺れ動く態度こそ、被害者とのあらたな紐帯を作り出すことができると考える。これまで「謝罪」と呼ばれたものは、この哀れみの二面性のうち前者のみを増幅させたもの。だからこそ、副作用が起きる。

ぼくらは従来の謝罪とは少し違った感情、弱さを受け入れた強い倫理を吐露する場面に差し掛かっているのではないだろうか。

そしてもうひとつは、BTSのメンバーが身につけた衣装に関しては、倫理的に優れたものではないことは事実だ。ぼくらはそれを正当な手段、ぼくらのそして人間の倫理にもとづいて表明しなければいけない。そしてもし、原爆の悲惨さを他国のひとびとが理解していないのであれば、率先して表明しなければいけない。なぜなら、原爆は人類史の中に位置付けられる人間の業の表出であり、臨海突破のひとつだからだ。

ぼくをここまで誘ったのは、上では書かなかったことであるが、東浩紀の「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題について」という論考(2019『ゲンロン10』:ゲンロン)なのである。この投稿を書くにあたり、少し読み返すとやはり感心する。東浩紀は悪の愚かさをどう加害側が継承していけるのかという問題を発し、「ぼくたちは、ぼくたちの平穏で幸せな日常の足もとに、どろどろとした暴力の残滓が常に埋まっていることを忘れてはならない。」(64頁)と書いた。そしてその先に、「悪について正面から考えることができる。忘れるのでも、非難するのでもなく、「考える」ことが出来るのだ。」(67頁)と主張する。

ぼくが澪標で書いた今を生きるために、ぼくたちは過去を一時的にであれ恒常的にであれ忘れざるを得ない。という考えは、しかし忘れてはいけないのだ。という矛盾を抱えている。そしてぼくたちはその矛盾に耐えることがときとしてできなくなってしまう。だからこそぼくらは倫理観をつよく保持するために努力しなければいけない。そしてその倫理観が発露する何かしらの装置(モノや記録)を作っていかなければいけない。この装置がぼくらの 二面性をもつ哀れみ を促してくれるはずだ。

ために

実は装置を作るだけでは 二面性をもつ哀れみ は生じない。まずもって哀れみは、ぼくらが人間であるからこそ生まれる感情のひとつであるからだ。人間である自覚が必要である。

ぼくは常日頃対立するひとたちをみて、なぜ対立しなければいけないのかを考える。そのとき当事者たちは互いが人間であることを忘れ、悪辣な言葉ばかりを吐く。

相手は人間であり、彼彼女らにも 最愛のひと がいて 笑顔 を見せ 怒る そして 涙 を見せる ということ、それを再認識することからものごとの進展ははじまる。

BTSの世界的躍進、同時に日本への韓国文化の流入、そして日本文化の韓国への流入によって少し埋められた溝をこれから先、少しずつ埋めていかなければいけない。でなければ、BTSの世界活躍への努力、そしてそれを受け入れようとした日本人の感性はどこにいくのだろう。無駄にしないためにも、ぼくらが人間であることを忘れてはいけない。

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脚注   [ + ]

1. ここまでのぼくの考えを聞くと、アメリカで評価されることが最終目的であるという考え自体が下らないと思うひともいるだろう。実はぼくもそうだ。ぼくは今の時代の特徴でもあるSNSから比較的距離をとっている。しかし、アメリカで生まれたGAFAがそしてTwitterが世界を支配したこのとき、アメリカで評価されることが世界的指針から言ってあながち間違いではないことは、ぼくからみても明らかだ。そして何より、日本の現代文化が韓国の現代文化を真似するべきとは言わない。しかし、韓国をひとつの文化的指標としての合わせ鏡としてみてみることには意味があるだろう。
2. 編集2020/03/31:現在は各軍での兵役期間が短縮されており、最低18ヶ月も可能とのこと。参考ページ
3. ぼくはBTSの問題に焦点を当てているため、日本が降伏し韓国が独立するきっかけを原爆に求める。それに対し古谷経衡は日本降伏はエビデンスとして「ソ連対日参戦」が降伏のきっかけであると言う記事を書いていて、とてもわかりやすいので読むと面白い。ただ、これに関してエビデンスではなく韓国人の過去解釈の問題であることは、注意したい。(参考ページ)。

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考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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