2010~

はじまった20年代

2010年代終わってもう一か月たつ。ぼくは10年代のほとんどを学生として過ごしてきた。そしてあまりにも狭い天井窓から世界を見ていた。

その天井窓を打ち破りたいと思って大学に行き、大学院に行き、いまに至る。その窓がどれだけ大きく広くなったかはわからないけれど、10年代学生として過ごしていたぼくよりは、いくぶんよくなっているんじゃないか、なんて思ったりもしている。

大きな出来事とささいな出来事

ぼくにとっての2010年代、それはあまりに大きな出来事と、あまりにささいな出来事によってできている。

前者は、2011年3月11日に起きた東日本大震災。後者がいつかの投稿でも書いた水野先生との出会いや、合唱との出会い、歴史と考古学との出会い。

後者の方が書くのが簡単だから、そちらから。

水野先生との出会いからぼくは、自分の天井窓を広げることになった。この世界にはぼくが知らないことがたくさんある。

そこから本を読むようになった。それまで読んだことがある本は、週刊少年ジャンプやはじめて買ってもらった小説『ダレンシャン』ぐらい。しかも、ダレンシャンは最初数頁をのぞいただけでそっと閉じていた。いまとなっては本を読むのが趣味になっている。

音楽との出会いは事実、10年代よりも前の中学時代の合唱祭だった。ちいさいころなんとなく感じていたぼくの感性の行き場のなさを音楽は優しく迎えてくれ、その世界の心地よさから大学でも合唱を続けた。しかし音楽はあまりに身体的な問題を自認させ、いくらうまくなりたいと思っても、理想には程遠い自分の姿をみる。それにつかれてしまって、ぼくは音楽から遠のき、考古の世界へ浸った。

考古の世界はいささか心地よかった。なんかうまくできるし、それなりに頭も動いてくれる。けれど夢は覚め、大学へ入学したとき考えていたオタク的耽溺への拒否感を思い出して、そして研究空間の哀れさに嫌気をさし、その世界を離脱している。

ぼくは10年代に授かったささいな出来事の多くを失ってしまった。しかも自らの手で。。

けれど、その失ったささいな出来事の残滓はいまも体に染みついている。本の読み方、楽譜の読み方、歴史と考古学の思考法、それら残滓をいまこの空間で組み立てている。

このささいな出来事のなかでいろんなひとたちと出会った。指導教官の白石浩之先生、あこがれた竹岡俊樹や東浩紀、勉強を教えてくれた水野先生、論文的文章の書き方を教えてくれた星洋一郎先生、宮崎駿や高畑勲、養老孟子などなど。会ったこともないひとたちもいるが、このひとたちとの出会いと、いくつかのチャレンジがぼくの天井窓を押し広げているんだろう。

3.11のこと

この10年代をひとことで表すならば、3.11のほか出ない。それぐらいぼくにとっては衝撃的な出来事だった。たしか、3.11は金曜日の昼間だったと思う。寝転がっているとぐるぐると目が回った。最初はめまいの一種だと思ったがふと近くの水を見るとゆらゆら揺れている。そのとき、これが地震だと気づいた。これまでに体験したことのない揺れ方、いったん玄関を開けに降りたが、まだ揺れは収まらない。とりあえず部屋に戻りTVをつけると、フジテレビの報道室ががくがくと揺れて安藤優子が半ばパニックになっていた。そしてカメラが外を映し出すと、フジテレビの奥から黒い煙が上がっていた。

大変な地震だ。。

TVにはりつきながら、恐怖にふるえていると東北地方の津波の映像が届いた。ぼくの部屋にあった小さなTVの画面からその津波の大きさをはかることができなかったが、海水が屋根まで達していることが分かったとき、津波の恐ろしさをはじめて知った。

そのあともTVはつけっぱなしにして、続報を待っていた。つづく報はあまりにも生々しかった。夜にはどこかの港が燃えてまるで戦争のような映像が、つぎの日には被災者が命からがら回した動画をおおくの報道局が流していたし、被災地に降り立ったレポーターから届く報にもあまりにショックを受けた。

とくに、ふたつ記憶に貼りついている映像がある。ひとつは津波から逃げ惑うひとびとの映像だったが、津波が迫るものの走ることができない老婆の姿。もうひとつがレポーターが届けた映像だったが、少年とおそらくその叔母が少年の母親をがれきから探すもの。最終的には母親が乗っていた車が津波に押し流され、建物の空洞に押し込まれていた。そしてその車の中に母親の遺体。少年はその状況に泣かず、気丈な姿をぼくたちに見せた。

このふたつの映像をおもいだすといまも心が壊れそうになる。津波から逃げる老婆の恐怖心、車を見つけた少年と叔母のこころを思うと

日が進むにつれて犠牲者は増えていった。原発も爆発した。

それを映像を通して体験した。そしてぼくの少しだけ鋭い感性はボロボロになった。

そこからはじまったいまの世界はどうか。若い世代はSNSや趣味に没頭し蛸壺化しいったし、大人たちは政治に介入し、一部の若者も喚起されデモをやり、そのデモはついに祭りになった。

総務省のページを見てもらえれば分かると思うが、2011年以降スマートフォンの利用者数が爆増し、SNS時代が到来。どこもかしこも誹謗中傷であふれかえり、フェイクニュースが乱立している。

3.11はいまぼくたちに何を問いかけているのか。ぼくにはまだわからないけれど、いまの状況がいいわけではないだろう。

3.11から紡がれた言葉

ある言葉が心を打つ。3.11で卒業式を延期された気仙沼市立階上中学校の卒業式で第64回卒業生代表の梶原裕太は避難者が見守る中こう述べている。

「生かされた者として顔を上げ、常に思いやりの心をもち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。」『永遠に語り伝えたい命のメッセージ』3頁より引用:PDF

いまぼくがどのように生きているかはわからない。けれど彼が述べたように生きたいと思う。それこそ私的ではあるものの3.11の後の日本、災後日本を生きる歴史的行為だと考える。

またひとつ、思う言葉がある。

ぼくが合唱をしていた時に、ある演奏会のアンコールで3.11についてつくられた曲を作曲者に合唱用に編曲してもらった、その歌詞である。その曲は「海とともに」という。YouTubeでも合唱版ではないが聴けるので興味があるひとは聴いてもらいたい。

「広い海がなかったらあなた達は生きられたのでしょう/でも、広い海がなかったらわたしたち生きられなくて/だから明日を恨まずに/自然とともにうみと共にまた新しく生きていこう/幸せをつくっていこう」YouTubeの歌詞から引用:動画へ

この矛盾を抱え生きる姿はまさに日常を生きるひとびとの姿である。研究者は日々矛盾の解消に努めるが、ぼくはこの詩に感化されるように、矛盾の解消にはあまり興味がない。それよりも、いかに矛盾をここちよく保つかに興味がある。それについてもこのブログでやっていこうと思っている。今回の投稿のことで言えば、3.11を関係なく日常を生きるひとびとと、3.11をきっかけにして日常をつくろうとしているぼくをどう折り合いをつけるべきか。。

今後

2010年代を多感な学生として生き、いま少なくとも表現者としてこのブログをやっている。そうである以上、ぼくは3.11にどう向き合うかを試行錯誤し実行したい。今回、10年代についてまとめたのもそれを新たにするためだった。

ぼくがこれまでに得てきた経験やチャレンジ、その残滓を用いて災後日本で考古学を語るという歴史的意味を探求する。この歴史的意味は私的だ。どこまでいっても。だが“いつか、どこかで”誰かが人生のあまりものとして共感してくれるんじゃないかと、希望をもっている。

さいごに

ぼくは絵もうまく描けない、歌もうまく歌えない、楽器もうまく弾けない、文章もうまく書けない。そんな能力不足のせいで感性だけが天井窓からどこかにひらひらと飛んでいく。3.11を体験したときがそうだった。表現方法がなかった。だがいまは違う。努力して、いつか飛んでいってしまった感性をそっと受け止めやりたい。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

このブログは、来訪者のみなさんに、ぼくの眼鏡で見た世界を書き表すことによって、色眼鏡を提供すること、それを目的としています。 世界は、正方形でも、まんまるの球体でもありません。見方によって世界は変化します。色眼鏡をかけることによって、それが促されるのです。その色眼鏡をはずし、元の世界をみたとき、あの色眼鏡が見せた世界は何であったのかを考え、「ひとりの木」を育ててほしいと思います。それがこのブログの目的です。

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