伊勢湾台風から60年とのこと

  • 2019年10月3日
  • 2020年4月12日
  • 埋立地

ぼくの地元は、埋立地で工業地帯である。そのため海抜が0mよりも低いところがしばしばある。そんな立地であるために水害に弱い。

その中でも1959年の伊勢湾台風はこの地域を襲った自然災害のなかでもっとも凄惨なものだろう。ぼくはかつて「非考古学ボーイ↔音楽」という投稿で、ぼくの地元地域には歴史がなく、あげられるのは伊勢湾台風ぐらいだと書いた。そのため、ぼくたちは義務教育期において、伊勢湾台風の体験談などをお年寄りから聞いている。

この地域において伊勢湾台風はどの長く深い歴史にも負けない生々しさをもつ災害であるのだ。

ぼくの母方の祖父と祖母もこの伊勢湾台風を経験している。祖父の話によると避難をしようとしたときには道に水が流れており、曾祖母が泳ぐのが苦手であったため家の屋根をたたきぬいて、屋根上に避難し助かった。と聞いた。もし、泳いで避難をしていれば、ぼくは生まれていないかもしれない。

祖母の話によると、祖母の実家は高台にあるものの非常に貧しく、家がボロで台風の風によっていまにも倒れてきそうな壁を家族全員で支えしのいだと聞いた。そして台風がおさまった後、低地をみるとキラキラとしていた。と聞いた。

ぼくが中学生のとき、ランチルームで聞いたお年寄りの体験談によると、名古屋港に浮かべられていた丸太が、縦に回転しながら襲ってきたことを話していたのを思い出す。そしてその話を聞いた中学校でも避難者が多く犠牲になっている。

この地域は水害に弱いため、伊勢湾台風のあとも水害に襲われている。ぼくが直接目にしたもので言うと2000年の東海豪雨がある。東海豪雨に関しては明瞭に覚えている。夕方から雨が強くなり、だんだんと水位が増していく。そして夜には家の前の道は水で閉ざされ大人の股ぐらいの水位があった。そんな風景をみながらぼくは、一種のアドベンチャーというかアトラクションのような楽観的感覚に浸っていた。事実ぼくの家の前に住んでいた、青年は調子にのって下水が混じるその水のなかを泳いでいた。

ぼくの実家は鉄筋コンクリート3階建てで、「こんな洪水じゃ死ぬわけないよな」と高をくくっていたからこそ、その楽観的感覚を抱いたのだろう。次の瞬間には、「よしこれで明日は学校休みだな」とも思っていた。そして実際に休校になった。

恐らくだが、祖母が高台からキラキラと水で満ちた低地をみたとき、そんな楽観的な感覚を抱いたのかもしれない。

伊勢湾台風による犠牲者は5000人を超える。そして、ぼくの実家の近くには、犠牲者のモノかもしくは、ただ流されたモノか多くの“くつ(靴)”が流れ着いた“くつ塚”がある。そこには慰霊碑が立てられ、水位を示す鉄棒がある。そしてそこは公園になっている。

いまのその地域にはくつ塚以外に伊勢湾台風の傷跡を確認することはできない。地面はコンクリートで覆われ排気ガスにみちたその町を何も知らない子供が駆け回る。かつてのぼくのように。そしていまのぼくはあることを思う。

それは「非考古学ボーイ↔音楽」では書かなかった通奏低音でもある、“埋立地から考古学を考える”ということと“弱い地域性から考古学を考える”ということだ。その考えとして伊勢湾台風は大きな判断材料になるのかもしれない。

くつ塚に集まった多くの痕跡や記憶をもつモノたちはどこにいったのだろうか。。

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「ひとりの木、考古学」は、色眼鏡を提供します。

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