映画タイタニックをみて思う。ひとびとの生と死、そしてその痕跡。

セリーヌ・ディオン

ぼくはこの世界で一番歌が上手いひとは、セリーヌ・ディオン(Celine Dion)だと思っている。彼女の声帯やその他の体のつくりは天賦の才に満ちている。その彼女の歌曲の中でもっとも有名かつ、歌唱力が必要とされる曲のひとつが、この投稿のタイトルにある映画タイタニック(監督:ジェームズ・キャメロン 1997年公開)の主題歌“My Heart Will Go On”だろう。

ここ最近、あるきっかけでその曲を含めた、セリーヌ・ディオンの曲を聴いていたところ、映画タイタニックが無性に観たくなり、Amazon Primeで200円でレンタルした。

映画タイタニックは日本でも262億円の興行収入を達成1)ウィキペディア参照 記事:2019/09/27閲覧しており、多くのひとたちがこの映画をみている。いまとなっては、ありきたりな内容かもしれないが史実の悲劇であるタイタニック号沈没事故のなかに、若い男女の恋愛と死別を描いているこの映画は多くのひとびとに感動をもたらした。ぼくもその感動に包み込まれたひとりだ。

しかし、ここで書くことはその感動の構造などといったことではなく、この映画にぼくがみた“ひとびとの生と死、そしてその痕跡”である。そしてこの視線はぼくが考古学を選んだ理由、考古学の本当の意義を考えだすことに水平線のようにつながっていく。

さてその主題に入るには、映画タイタニックの内容をちょこっと書いておこう。

映画タイタニック

先述したように、この映画は史実にフィクションをたしながら映画として成り立っている。史実のタイタニック号は1912年4月15日深夜に氷山に衝突し大西洋に沈没した豪華客船である。約2200人の乗客のうち1500人が死亡している。

映画ではタイタニックが沈んでから84年経った1996年の大西洋をトレジャーハンターたちが潜水艇で調査し、ある金庫を回収するところから始まる。金庫回収までに、朽ち果てたタイタニック号の生々しい痕跡、割れた眼鏡や破れたブーツなどが映る。

その金庫には碧洋のハートと呼ばれる大きな宝石を装飾したネックレスが収められている目論見だったが、その金庫に入っていたのは、裸体美女の絵だった。その裸体美女の名は“ローズ・デウィット・ブケイター”であり、この映画のヒロインである。ローズは1996年も生存しており、そのニュースを見て調査者に連絡、調査者たちにタイタニック号の悲劇を語る。

その話とともに、朽ち果てたタイタニック号はみるみる1912年の姿へと逆流しうつろいをみせる。

1912年、船内でローズと恋仲に落ちる金も地位もない画家を目指す青年ジャック・ドーソンは、ポーカーの結果タイタニック号の切符を手にする。そして悲惨な事故へとふたりを誘うタイタニック号はNYを目指し出港する。

このタイタニック号は豪華客船であるが、一等から三等までのランクがあり、一等船客には上流階級のひとびと。そのなかにはローズがいる。三等船客にはジャックや、家族連れ子供連れ、移民などがいる。そしてクルーには航海士などの花形もいれば、ボーイやボイラー室で石炭をくべるひとびとがいる。船内は多様なひとびとが区画をもちつつ溢れていた。

一等の上流階級人はパーティーをたしなみ、ときに婦人たちは紅茶を飲みながら最新のゴシップを語り、紳士たちはシガーとウィスキーを堪能しながら経済や政治の話をした。

三等のひとびとの中には、ケルト音楽や黒ビールに酔いしれながら、ときに踊り狂い、ときに腕相撲で力比べをするといった世界を構築している。ぼくは当時のイギリス社会状況などに詳しくないため、どこまでが史実に忠実な再現がおこなわれているかはわからないが、三等のひとびとは一等の空間に足を踏み入れることすらできない設定になっている。

一等から三等までのひとびとは先述したように、区画をもっていた。

名前が残るひと、残らないひと:見えるひとびと、見えないひとびと

すこし映画タイタニックの話から、“歴史ついて”という抽象的な話をしてみよう。

“歴史”と聞くとおおくのひとは、戦国時代という過去の一区分の歴史を挙げたり、応仁の乱、本能寺の変といった名が与えられた事件を、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった人物名を挙げる。現状、高等教育までの歴史はそれら固有名の暗記にかかっている。しかし、過去に含まれるのはその固有名をもつ事件や人物のみではない。

過去という大海にはもっと深みがある。

応仁の乱や本能寺の変に隠れた庶民の殺しもあるだろう。織田信長の名前に隠れた多数の足軽、農耕民、非農耕民などもいたはずだ。しかし、このひとたちは固有名がないことを原因として通常の歴史には登場することはできない。

固有名をもたない、または消失したひとびと(以下、見えないひとびと。対照に固有名が残るひとびとは、見えるひとびと。織田信長など)はその時代に生きていたはずで、ぼくたちや見えるひとびとと変わりなく、喜怒哀楽しながら、交換不可能な人生を送っていた。

その見えないひとたちをいかに歴史という舞台へ昇華するのかは人類が歴史について考えてきたときの大きな課題である。アナールより始まる社会史や文化史にはその力と目があった。ぼくはそれに近い歴史を網野善彦を通して大学一年時に知り、以降ぼくは自ら光を放たない見えないひとびとと、いかに対話するかそしてその意義を考え信じている。

そして何より、見える見えないを横断するように、そのひとたちは交換不可能な人生を送っていたことが重要である。

ひとびとが交換不可能な人生を送っていた以上、固有名の回復のみでは弱く、ひとびとの人生をイメージできなければいけない。

言い換えれば、“物語り”が必要だ。

物語りと、見えないひとびとの回復によって歴史はいったんの完成をみる。

ではなぜ考古学なのか、

考古学はモノを扱い過去の復元を試みる。その射程範囲には文字をもたない先史時代をも含まれている。というより先史時代こそ考古学の力がもっとも発揮されているといってもいい。先史時代には文字がないからだ。さきに、普通の歴史には見えないひとびとは固有名をもたないから登場が難しいと述べてきた。

固有名をもたないということは、記録(文書)が残っていないということである。記録がない以上固有名の復活は難しいが、ひとは文書のみに記録が残るわけではない。

先史から有史時代の見えないひとたちは、物質に取り囲まれ、モノを使用しそれを残した。このモノこそ文書に代わり得る記録媒体のひとつである。

その文書がないことによる固有名の消失(存在の消失)をモノから突破し、現代において生きた証を見つけ出す。ぼくはそこに考古学の意義を見ている2)最近、思想家の東浩紀は固有名の問題を力強くまた独創的に論じている。固有名の問題はぼくが大学一年から連続して考えてきたことであるが、東浩紀の論考はぼくに大きな影響を与えている。かれは人間の愚かさへの特徴として固有名の剥奪をながめ、それへの抵抗として固有名の奪還の必要性を論じている。そしてこの問題は加害と被害の問題へと枝を伸ばしている。かれの問題意識はひとの愚かさである。ぼくの問題意識は見えないひとびとである。東浩紀の論考2019a「悪と慰霊碑の問題」『新潮』第116巻第1号176-182頁・2019b「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」『ゲンロン10』 28-69頁ゲンロン

では、ここまでのぼくがみる歴史観と考古学の意義をもとにして、映画タイタニックの話を広げてみよう。

映画タイタニックから思うこと

ぼくがこの映画をみてこの投稿を書こうと決心したのは、タイタニック号沈没事故という固有名をもつ事故の中に、見えるひとびと、見えないひとびとを考古学的アプローチで映画として描いたことによる。

まず、最後に述べてあるがジャックは船客名簿などに記録がない。映画において彼は見えないひとびとのひとりであった。そしてそのジャックと同じように史実においても見えないひとびとはこの船に乗り込んでいたのかもしれない3)史実のタイタニック沈没事故で犠牲となったひとりひとりに、その後の調査で固有名が与えられたかどうかは、ぼくが調べた限りでは不明瞭だ。多くの記事に乗客の名簿に関する記述があるが、偽名を使った可能性などによって、犠牲者の正確な人数は不明らしいこれに関しては主にウィキペディアを参照した。記事 :2019/09/27閲覧、ただし名簿が存在することも事実だ。記事1記事:2019/09/27

また、この事故には不条理な事実がある。救命ボートの数が少なく、乗客の半数しか救助不可能であったという事実。この不条理さによって死を待つしかなくなったひとびと、そしてその中に見えないひとびとであるジャックがいたことを、この映画は描いた。それはフィクションとしての回復(救済)である。

調査員たちが記録がないジャックの存在を知り得たのは、もちろんローズの記憶のおかげである。ではなぜローズはジャックを語ったのか、そのきっかけは何であったのかを思い出してほしい。

そのきっかけは痕跡としてのモノ、そうローズの裸体絵である。その裸体絵にはJDというイニシャルが記されている。裸体絵の発見と、そのニュースを偶然聞いたローズによってジャックは蘇ったのだ。

モノには記憶が憑依している。映画では裸体絵にジャックの記憶が憑依していた。

なおかつ、映画では朽ち果てた暖炉が、年老いたローズの回想とともに過去にあった黄金の輝きを取り戻すシーンがある。そのほかの場面での1996年のタイタニックから1912年のタイタニックへ、そしてその逆へうつろう描写はモノから過去へという考古学的描写といえる。

ぼくはこの裸体絵の存在とモノから過去へという描写に感動を覚えた。

ひとは交換不可能な人生を歩み年をとりいつか死ぬ。そしてときに不意な事故などよって死ぬこともある。その存在は周りのひとびとの脳内記憶にしか存立可能であるわけではない。ひとびとはモノに取り囲まれ、そしてモノ(痕跡)を残す。そのモノには意味が憑依し、いなくなってしまったひとびとを物語りを用いイメージ可能なものにさせるのだ4)厳密に言えば物語りがなくとも勝手なイメージは可能である。

いま、朽ち続けながら大西洋の深みで眠るタイタニックにはその痕跡というモノが残っている。彼らが使った道具、彼らが歩いた廊下、彼らが夢を見たベッド。そのひとつひとつに、ひとびとを想起させる痕跡と力がある。

あるセリフを。解釈のために

最後に1996年のローズを囲む一連のセリフを引用しておこう。終盤のセリフだ。

ルイス・ボーディーン(トレジャーハンター)「ジャックの記録は何ひとつ残っていない」

ローズ「あるはずがないわ/彼のことは今まで誰にも話さなかったの/主人にもね/女って海のように秘密を秘めているの/ジャック・ドーソンというその彼が 私を救ってくれたの/それも あらゆる意味でね/写真も残っていない/でも彼は私の心の中に生き続けているの」

一連のローズの想い出を聞いたトレジャーハンターの代表はこう締め括る

ブロック・ロベット(トレジャーハンター)「ダイヤが見つかったらこれを吸おうと(葉巻)」

リジー・カルバート(ローズの孫娘)「残念ね」

ロベット「3年間 おれの頭は タイタニックのことで一杯だった/でも何ひとつ分かってなかった」5)Amazon Prime版の字幕を引用「/」は字幕の切り替え場所を指す。字幕内の「—」は省略()内は筆者

そして1996年のローズは隠し持っていた碧洋のハートをタイタニックが眠る海へと投げ入れ、寝床につく。そのうち、深海の朽ち果てたタイタニックへ場面が転換、タイタニックは美しい木漏れ日のように光り輝き1912年の大階段へとうつろう。そこには貧乏な服を着たジャックと犠牲となった見えないひとびとや見えるひとびと。そこでは等級や職業の差はなく皆が相まみえ、キスをして抱き合うふたりに幸福の拍手を送る。

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脚注   [ + ]

1. ウィキペディア参照 記事:2019/09/27閲覧
2. 最近、思想家の東浩紀は固有名の問題を力強くまた独創的に論じている。固有名の問題はぼくが大学一年から連続して考えてきたことであるが、東浩紀の論考はぼくに大きな影響を与えている。かれは人間の愚かさへの特徴として固有名の剥奪をながめ、それへの抵抗として固有名の奪還の必要性を論じている。そしてこの問題は加害と被害の問題へと枝を伸ばしている。かれの問題意識はひとの愚かさである。ぼくの問題意識は見えないひとびとである。東浩紀の論考2019a「悪と慰霊碑の問題」『新潮』第116巻第1号176-182頁・2019b「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」『ゲンロン10』 28-69頁ゲンロン
3. 史実のタイタニック沈没事故で犠牲となったひとりひとりに、その後の調査で固有名が与えられたかどうかは、ぼくが調べた限りでは不明瞭だ。多くの記事に乗客の名簿に関する記述があるが、偽名を使った可能性などによって、犠牲者の正確な人数は不明らしいこれに関しては主にウィキペディアを参照した。記事 :2019/09/27閲覧、ただし名簿が存在することも事実だ。記事1記事:2019/09/27
4. 厳密に言えば物語りがなくとも勝手なイメージは可能である。
5. Amazon Prime版の字幕を引用「/」は字幕の切り替え場所を指す。字幕内の「—」は省略()内は筆者
>「ひとりの木、考古学」は、考古学的な視線を現代に生かすことを目的としています。

「ひとりの木、考古学」は、考古学的な視線を現代に生かすことを目的としています。

考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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