みなさんは、“考古学ボーイ”という言葉を知っているだろうか。考古学界隈ではよくつかわれる言葉のひとつだ。その言葉の意味は単純で考古学好きの少年を指す。考古学好きの少女がいれば“考古学ガール”といえる。
後期旧石器時代研究に大きな貢献を果たした小田静夫は、自身が考古学ボーイであったことを明言しているし、竹岡俊樹もまた中学生のころ石器と出会っている。考古学への入門は考古学を好きになる瞬間(モノとの感動的・思考的対面)があるかないかだ。両者は大学に入る前、いわばアカデミックな考古学に身を投じる前に、考古学と対面している。
また、ぼくの後輩にも考古学ボーイがいた。大学院2年だったぼくの前に、突如現れた大学一年生。その彼は考古学ボーイで、もう石器の魅惑に取りつかれており、これまでに自身が採集した石器をぼくたちに見せてくれた。中にまったく風化していない石器があり、聞いたところ自分で作ってみたそうだ。こんな子供がまだこの平成にもいるのかとちょっとショックを受けた。なぜなら、ぼく自身が考古学ボーイではなかったからだ1)この考古学ボーイという不思議な存在がぼくに「リアルとフィクション」を考えさせた。
ぼくは考古学という存在を大学で知った。1年の必修科目である「考古学概説」では暇な時間を過ごし、教師が大森貝塚を知っているかと生徒に問いかけ、「知らん」と思って周りを見るとほとんど全員が挙手をして焦ったこともある。それぐらいぼくは考古学から遠いところにいるひとだった。
そんな中、前期が終わり試験の結果を見てみると、日本史、西洋史、東洋史はAないしはAAだったのに、考古学だけがB。
母校は2年生からゼミ分けがあったため、そのことも考えなければいけなくなった。ぼくはもともと大学一年の春に網野善彦の本を読んでから“名前が残っていないひとびとの歴史”に興味をもっていたため、日本史とくに中世を選択しようと考えていたが、どうせ大学に来たからには、一番できなかった考古学をやってみよう、そして「なんか成人式で考古学やってるって地元の奴らに言ったらかっこよくね?」みたいな不純も抱えつつ、考古学を選択した。
考古学にハマったのは大学からということで、石器も大学3年生のとき、縄文時代後晩期の打製石斧を拾ったのが最初だ。
ぼくは非考古学ボーイだった。ではその要因は何か。
ぼくが生まれ育った土地は埋め立て地で、知能指数も低い汚い工業地帯だった。そのため、小・中学校には全室クーラーが供えられていた。この地域の大きな歴史といえば伊勢湾台風で多くの死者を出したことであり、家の近くには死者の靴が多く流れ着いたとされる“靴塚”がある。
この地域の歴史は浅い。そして埋め立て地であるために自然の土も畑もない。そんな地域で生まれたために、石器や土器といった考古学の入門をはたすモノを拾うことはできなかった。この生まれた地域こそぼくが“非考古学ボーイ”であり“考古学から遠いところにいるひと”であった要因だ。
しかし、ぼくには考古学や歴史に代わるものがあった。それは音楽だ。中学生のときぼくはベートーヴェンの交響曲第9番を偶然TVで聴いた。交響曲といっても聴いたのは毎年行われている佐渡裕の一万人の第九でフィナーレのみ。しかし衝撃を受けた美しいを通り越してそれは崇高なる音の集まりだった。
もともと母親がピアノをしていた名残として、家の片隅にアップライトピアノがあったこともその感動の一要素なのかもしれない。そのまま、ぼくは音楽漬けとなり大学では1.2年生はろくに勉強もせず、音楽に浸った。通学中はイヤホンで音楽を聴き、授業も少し暇だったら楽譜を開いてイメージをめぐらした。
楽譜は大学に入ってから読めるようになった。その楽譜の読み方はその後論文の読み方に大きな影響を与えている。
しかし、音楽とは不思議な生き物だ。かってに頭の中で鳴り出すし、かってに他人を感動させるし、かってに指揮者を怒らせる。しかも、生きるのに必要もないのに音楽が必要とされことも多い。実際、人間は合理性のみでは生きられない構造であるため、非合理的な音楽が存在することは不思議ではないのだが、、、不思議だ。
もはや、音楽は顔が似ていない従妹のような存在なのかもしれない。
ぼくは、非考古学ボーイとしての素地がある。そしてその代わりに、音楽漬けだったころの残滓である音楽的思考力をもっている。そしてぼくが大学3年生からいままで考えていることのひとつに、この音楽的思考と考古学の融合がある。
それをいつか形にしたいと、エルガーのエニグマ変奏曲を聴いて再確認した。
というおはなし。
脚注
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