透明人間

ある日の金曜ロードショー

2019年8月16日の金曜ロードショーで宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が放映された、放映開始時間は8時からだったが、普通に考えて開始時間が早すぎる。「千と千尋の神隠し」であれば、通常放映開始時刻の9時で大丈夫なはず。と疑問に思っていた。しかし、「千と千尋の神隠し」の放映が終了すると、実質スタジオジブリの後継社であるスタジオポノックが製作した短編アニメーションの放映が開始された。

作品は山下明彦監督の「透明人間」15分ほどの作品だ。

内容はいささか社会風刺的である。そしてぼくはこの作品に魅了された。だから今回は書いていく。しかし、この投稿は、ぼくが「透明人間」みてそれに感動し肌感覚に基づいて書いているので、エビデンスなどはない。ぼくというコンテクストをもつひとりの人間が感じただの妄想である。そして何よりネタバレを含むことは承知してほしい。

透明人間

ある程度ストーリーを交えながら見ていこう。ちなみにHuluでこの作品をみることができるので、興味があるひとはぜひ見てほしい。

まず目覚まし時計が鳴る。そしてもうそこに当然として存在する透明人間(男性)がその音を消す。トイレをすまし、歯を磨く。このとき、足には4キロのダンベルで重しをしている。そして出勤するために、玄関に出向き、消火器を抱えて外に出る。とりあえずここまでにしよう。

観客はなぜ、その男性が透明人間になったのかを知ることがここではできない。彼は最初から透明なのである。しかし、透明部分は肉体のみであり服は透明ではない。そしてなぜ、彼がダンベルで重しをし、消火器をもって出勤をするのかは後に分かるが、このときの描写では、重心が消火器をもつ左手に集中しており、著しく傾いていて不自然である。この理由も後に回収される。

そして何より、このアニメの描写タッチは荒々しい。通常のアニメのような清書された線ではなく、ざらっとした線を採用している。ぼくはここに一種の高畑ニズムを感じた。ぼくはそこも好きだ。

さて次にいこう。

出勤の方法は原付である。出社するとパソコンでタイピングをしている。しかしエンターキーを押すとエラー音が鳴り、やり直してもエラーが出続ける。そして彼は、上司や同僚からは無視というよりも存在しない、認識されてない。仕事は任せられないし、同僚がおとしたものを拾ってもお礼どころか、認識されないのだ。その後の描写として、こども達がボールを落としそれを受け止めこどもへ返すがここでも認識はされない。コンビニの自動ドアも彼を認識しないのであかない。ATMも認識していない。パンを買おうとしている彼を店員ですら認識しない。

彼はその状況が嫌になり、消火器を投げ捨てると、彼の身体はふわふわと宙に浮きはじめ、焦った彼は再び消火器を抱え込むが、結局はその消火器も手放してしまい、ふわふわと浮き続け、結局は工事現場のつるはしを手にして何とか地にとどまる(おそらくこの描写は自殺未遂を意味する)。

このことから分かるように、彼はふわふわとした存在だ。家で歯を磨くときダンベルを重しにしていたのも、消火器をもっていたのも自分を地にとどまらせるための道具(モノ)だった。ふわふわした存在だからこそ、重心もずれている。

その後、雨の中、落ち込んでいる彼の横に大型犬が来て彼の顔をなめる。その大型犬の横には恐らく老人だと思われるが、男性が立っていてその老人も大型犬も彼を認識している。このとき初めて観客以外の生物が「透明人間」である彼を認識した。この大型犬と老人の関係を述べておくと、大型犬には盲導犬特有のバーハンドル型のハーネスがついていること、大型犬が先導して老人を動かしていること、老人がサングラスをしていることからから、その老人は視覚障害者だと考えるのが妥当だろう。また老人も彼(主人公の透明人間)とおなじ透明人間と考えるひともいるだろう。しかし(老人の顔の描写はなく、肌の露出部もないので不確定だが)、一コマ、老人の髭(と思われる)描写があるので、老人は透明人間ではない。

その老人は彼に菓子パンを差し出して去っていく。菓子パンを食べた彼は不吉な予感を察知して、つるはしをもったまま原付に乗り走り出す。その前をトラックが走る。すると前方にベビーカーが滑り落ちてきてそれに乗っていた、赤子を彼は決死の覚悟で救った。その赤子の無事を確認し安堵するが、赤子は泣いてしまう。それに彼は「いないいないばあっ!」をして赤子をなだめると、赤子は彼を認識して笑う。

そしてエンドロール中にもう一つの描写があるがそれは後で書こう。一応ここまでが「透明人間」のストーリーである。

ここでふたつの問いを立ててみたい。

1.透明人間はどこまで透明なのか

2.彼はなぜ透明でありそしてどうなったのか

このふたつである。

透明・質量・矛盾

1について考えていこう。透明人間がどこまで透明なのかは小題の通り矛盾がある。彼はダンベルや消火器やつるはしを重しにしなければ、ふわふわと浮遊してしまう。そのことを考えると、彼には質量がないと考えてしまうが(ぼくも最初はそう考えた)、彼は原付を押すことも、自動ドアにぶつかることもできる。そのため彼は完全に質量がないわけではない。しかし、人間は彼を通り抜けることができる。ここに一つの矛盾がある

そして雨は彼に顔に付着し水滴をつくりだすことから、彼の肉体そのものは存在している。このことから先の矛盾はこう解決することができる。おそらく、彼を認識したもしくは彼が認識したモノを彼は接触することができる。

認識存在のふたつに分けてもう少し書いていこう。彼は透明である。しかしそれは認識的に透明であり、彼は彼自身の中で、または大型犬や老人からすれば存在はしているわけだ。だからダンベルや消火器、落としもの、ボールを触ることも原付を押すこともできる。自動ドアに当たることもできる。そして透明人間を認識した大型犬は彼の顔をなめることができた。しかし、彼を認識していないひとびともいる。会社の上司や同僚は彼を認識していないので、彼を存在として知覚できない。コンビニの店員も彼を認識していないので、すり抜けてしまう。

PCキーボードや自動ドアやATMは存在しているモノではあるため、彼はそれを触れることができるが、それら機械は認識的作業を伴うので彼は認識されず、自動ドアは開かないしATMからお金を引き出すことができない。私たち人間は認識しなければ存在しているものを知覚できないのだ。彼は周りの存在を認識するもの(ひとや機械のシステム)から認識されず、無意識的に存在が否定されている状況下に置かれてしまう。

また、彼の透明化はステルス機能的でもあるということがいえる。彼は老人から菓子パンをもらったが、その菓子パンを食べたとき、咀嚼され飲み込まれる菓子パンは見ることができない、また、赤子を助けたときに、血は赤く描写されていたので、内部は透明ではなく彼の肉体(外部:肌や口内)がステルス化していると考えるのが妥当だ。

透明であることそしてそのあとの彼

2について書いていく。彼を認識していない者は彼に触れること接触すること(存在として知覚すること)ができない。しかし、彼自身は自分が存在していると思っている。しかし、周りの人々はそれを認識していないため、彼は存在しておらず、透明人間になっている。このテーマは現代社会における認識されていないひとびとを透明人間というメタファーで捉えると考えられ、社会風刺的に感じる。しかし、問題がある。彼はいつから透明になったのか?

彼は朝に歯を磨いたとき、ダンベルを重しにしていた、外出の際には消火器を常備していたことから、このアニメーションが始まる前から、彼はふわふわしていた(=透明化)と考えることが可能だ。しかし、彼は、PCから認識されないこと、コンビニの自動ドアが開かないこと、ひとにも認識されていないことなどにショックを受けている。このアニメが始まる前から透明人間であったのならば、そのショックを説明できない。もしかしたら、彼自身が透明人間であること自体を認識していないのかもしれないが、だとしたらなぜ重しが必要だとわかっていたのか。この矛盾はぼくがこの作品をみただけでは解決できなかった。もし解決できる解釈をもっている人がいれば、教えてほしい。

そのあとについて考えよう

赤子を助けたときなぜか、手だけが透明化していない。そしてその後のエンドロールで晴れた道を原付で走り抜けていくシーンがあった。そのときの彼の後ろ姿は髪の毛が描かれているため、彼はそのとき透明人間ではなくなった。そして重しも必要ではなくなっている。なぜ、このとき彼が透明人間ではなくなったのかがよくわからない。善い行いをしたからか? 命を懸けたからか? 必死になったからか? どれもこれまでのコンテクストを考えるとピンとこない。彼はその赤子を救ったという功績をもってひとびとから認識され存在が確立されたということかだろうか。

これについても解釈ができない。。

短編アニメーション「透明人間」

「透明人間」が伝えたかったことは認識と存在だと、ぼくは考える。認識しなければ存在することにならない。その主張は非常に残酷であり量子のもつれ的だ。月は見ている時だけ存在するのかそれとも見ていないときも存在するのか。というアインシュタインと量子論者との論争を彷彿とさせる。わたしたちが認識していないひとたちはいまも、透明人間であることを苦しんでいるのかもしれない。そんなことを感じさせるアニメだった。

—追記2018年8月17日2:22—

彼が同僚の落とし物を拾うとき、透明ながらも顔のシルエットが浮き上がるシーンがある。なぜここで顔のシルエットが浮き上がるのか、よくわからないが、もしかしたら彼は、感謝されることを望んでいたのかもしれない。さいご赤子を助け、「いないいないばあっ!」をして赤子が喜んだ。その結果彼は透明人間ではなくなった。承認欲求を望んでいた。そんな可能性のもあるのかもしれないと考えた。

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考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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