いま、考えていること

遅々として進まない脳みそ

ちょっと東京へシリーズを終えたら、とうとう本題に入るつもりでしたが、どうしても頭が回らず苦しんでいます。でも、そろそろ書かないといけないと、思っているんで、次回から考古学とはどんな学問であり、そしてぼくはその考古学のどこを変えようとしているのか。を書いていこうと思っています。

しかし、なぜ頭が回らないのか、それはさまざまな現実から逃げているということにほかなりません。そして、いまぼくが考え書こうと思っていることが、今までぼくが書いてきた何倍も大きな問題を作り出そうとしているということも関係しています。

ということで今回は、ぼくが逃げている現実と、浮かび上がらせようとしている大きな問題について、ぼくのTwitterでのつぶやきを引用しつつ書いていこうと思います。

ノートルダム大聖堂、伸びた感性

ぼくは、なぜか最近、感性が世界に伸び一喜一憂している状況が続いています。この状況が始まったのがいつなのかは分かりませんが、たぶんフランスのノートルダム大聖堂が燃えたときから続いている気がしています1)2019年3月15日に起きたニュージーランドのクライストチャーチモスクで起きた銃撃無差別殺人も大きなきっかけかもしれません。

ノートルダム大聖堂が燃えたのは2019年4月15日の夜2)日本でそれを知ることができたのは、恐らくですが、16日の深夜だったと思います。。なぜだかわからないショックを受けました。この「なぜだかわからない」という、うやむや感が不思議であったことは覚えています。また、Twitterで拡散された現地の映像に衝撃を受けました。

その映像とは、燃えるノートルダム大聖堂をながめながら、Ave Mariaを歌う人びと。日本人で仏教徒であるぼくからすれば変わった、そして不謹慎かもしれませんが、美しい映像でした。モノが燃えたことにショックを受ける人びとを目の当たりにしたんです。

この時、ぼくの中にモノ(物質)と人間の関係を広い視点で捉えなおそうという考えが生まれ、それを語ることができる空間と知識を欲し、いまにいたります。

そして偶然にも、その前日にぼくは、考古学(純正の)との決別をTwitterでつぶやいています。そのつぶやきを下に引用しておきます。

まぁ、この時は若干鬱気味でして、極端なことを言っていますが、純正考古学ではない何かを探す明瞭なスタートラインに立った瞬間です。

このつぶやきの後に、ノートルダム大聖堂が燃えたことは、ぼくにかなりの影響を与えています。その証拠にまたぼくのつぶやきを引用しておきましょう。

そして後日、こんなつぶやきを。

このようにノートルダム大聖堂の火災からさまざまな影響を受けたぼくは、先述したようにモノと人間とのかかわりを主題として、世界をみるようになります。その結果、ぼくの視線は旧石器時代や縄文時代から現代そして世界へと広がっていきました。

そしてぼくの感性はこれまで以上に伸び、さまざまな事件や事故に一喜一憂するようになっていくわけです。

最近の世界

日本だけでもさまざまな事件事故が起きてしまいました。4月19日には池袋で悲惨な事故が起こり、川崎での児童を狙った通り魔事件、最近では京都アニメーションの放火殺人事件が起き多くの人たちが犠牲になりました。

とくに池袋の事故では高齢者から自動車運転免許を取り上げろという、老人への無配慮な意見がSNSであふれかえり、目の前の感情だけに踊らされる大衆の存在を目の当たりにしました。

ほかにも、吉本興業やジャニーズといった比較的生活に近い次元で起きた問題や、参議院選挙、日韓問題など大きな問題を孕みながら、いま社会は、そして世界は地球の自転と公転によって経過し続けています。そしてその経過によって、それら事件事故は忘れ去られていく。

さまざまな悲惨な事故や事件を忘れるということは、非常に残酷な現象です。しかし、私たちの脳みそには容量的な限界がある。そして、何か悲しいことが起きても忘れることができなければ、明日を生きることができない。

この現実を歴史的認識として受け入れ、そして忘却されうる現象を思い出す装置として、人はモノに意味を託すようになる。その行為は意識無意識的におこなわれる。という考えを今持っています。

しかし、そんな現実を純粋に受け入れることが非常に難しい。そんな現実から逃げたいと考えてしまう。自分がいることも事実です。それが現実逃避を起こしている。そんな状況です。

今後へ

ノートルダム大聖堂が燃えてから、大きな視線を構築するようになり、その結果、感性が伸びて、これまで他人事だった問題、守備範囲外だった問題を身近に感じるようになりました。しかし、それら問題は新たな問題によって、また自転と公転という止めることができない経過によって、忘れ去られています。そして、ぼくはその現実を理性的には理解しているが感性的に消化しきれずにいる。その結果、頭が回らず作業が進まないという問題を抱えるようになりました。

そしていま考えていることは、人はモノへ意味を与え、そしてモノは人に意味を与えるということです。その大きな視線の中に、先述した忘却とモノの関係を据えようと考えており、また、「高畑勲展へいく」でも少しヒントを書きましたが、二次元内のモノについても考えいる最中です。

この考えをまとめるときには、この考えにたどり着くヒントを与えてくれた研究者の文章を引用しつつ、書いていきます。その時引用される主だった研究者は、溝口孝司、竹岡俊樹、アンドレルロワグーラン達です。

しかし、あまりにも大きな問題だし、ぼくもこれまでに、ここまで大きな問題をあつかったことがないので、うまくまとめられるかどうか。。。

もしも、まだ時間が必要なら、次回は別のことを書くかもしれません。とりあえず、いまぼくが考えていることは面白いことだとは思うので、期待してください。

最後にもうひとつ雑考

最近、若者が大きな話をしないという批判がよくあります。みな蛸壺になり、自分の世界観に浸っていると。ぼくはその状況が嫌でした。だからモノと人の関係、物質と忘却の関係、物質と意味の関係を考えるようになったわけですが、いまとなって、なぜ若い人たちが、大きな話をしないのか少しわかった気がしています。それはぼくの“いま”が傍証しているんじゃないでしょうか?

大きな話をするには世界を見るしかありません。その結果、否が応でも感性が伸びさまざまな事件に衝撃を与えられ、混乱してしまう。そんな状況を避けるために、小さな世界へと入り込んでいくんじゃないでしょうか。最近そう考えています。

では、また。

脚注   [ + ]

1. 2019年3月15日に起きたニュージーランドのクライストチャーチモスクで起きた銃撃無差別殺人も大きなきっかけかもしれません。
2. 日本でそれを知ることができたのは、恐らくですが、16日の深夜だったと思います。

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>「ひとりの木、考古学」は、考古学的な視線を現代に生かすことを目的としています。

「ひとりの木、考古学」は、考古学的な視線を現代に生かすことを目的としています。

考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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