ちょっと東京へ① 国立ハンセン病資料館へいく

ちょっと東京へ

今回は、ある学会に参加する目的で東京へ来ました。この記事を書いている今この時東京にいます。久しぶりの東京。

実は東京を中心とする関東地方には優良な先史時代遺跡が多く発見されているので、研究をしているときは頻繁に東京に来ていましたが、研究から遠ざかった今、あまり訪れる機会がありませんでした。しかし今回は旧石器学会という学会に参加するために東京へ来たわけです。

学会にはもうあまり参加しないつもりでしたが、今回学会のテーマに非常に興味があったので例外的に参加することに。学会そのものは2日間おこわれるんですが、1日目の発表にはあまり好奇心が刺激されなかったので、ずっと行きたかった国立ハンセン病資料館に行くことにしました。

国立ハンセン病資料館を知ったきっかけ

ぼくはこの資料館の存在を恥ずかしいことになんとなく認識しているだけでした。この資料館を知ったきっかけは、ぼくが敬愛する宮崎駿がこの資料館で講演会をしたというニュースを見たことがきっかけになっています。その講演会で宮崎駿は自身の作品の中にハンセン病患者の生きた証を残したことを告白したようです。

恐らくその作品は「もののけ姫」でしょう。もののけ姫には中盤にタタラ場にて包帯巻き姿の人々が登場します。おそらくこの人々がハンセン病患者として描かれていると考えれるわけです。宮崎駿はハンセン病患者の存在を知り、「おろそかに生きてはいけない」と決意したそうです。下のYouTubeがそのニュースです。

そのことを知ってからこの資料館へ行きたいという気持ちが強くなったんです。

国立ハンセン病資料館へむかう

ぼくは6月29日から7月2日まで東京に滞在する予定ですが、実はぼく、東京が苦手です。まず人が多い。ぼくは人混みが苦手。また、東京の電車網も苦手です。ぼくは名古屋に住んでいますが、名古屋だけでも大変なのに、東京の電車網は名古屋の3倍はある。本当に大変な都市です。さすが首都といったところでしょうか。

新幹線で東京についてからすぐに、ホテルのある大塚へ行き、キャリーバックを預け、そのまま山手線で池袋へ、池袋から西武池袋線に乗り換えて、ハンセン病資料館の最寄り駅である秋津駅まで行きました。

池袋。その名は恐らく日本人なら誰でも知っている場所。地名。西武池袋線に乗り換える際、ちらっと池袋の街並みが見えましたがさすがという感じでした。そこから電車に拠られ東久留米の方へ向かっていくと。だんだんと高層ビルは少なくなり、住宅街や少量の緑が目に付くようになります。いわば首都感がだんだんと薄れていく感じがしました。電車自体も空いていて、その感じをより一層強めています。

そして秋津駅へ。

秋津駅にはもう首都感はありませんでした。見慣れないちょっと栄えた駅という感じです。駅の周辺特に南口周辺には飲食店が多くありましたが、それに併存して、生花売店や野菜の売店などもあり、田舎でもなく、都会でもないファジーな空間が広がっているのが分かります。

ぼくが目指すハンセン病資料館は秋津駅からバスに乗るのがいいらしいんですが、ぼくがやっている考古学は自分で土地を歩くフィールドワークに重きを置く学問の一つなので、今回も自分の足で道草を食いながら、周りに道をしながらハンセン病資料館に向かうことにしました。

具体的には秋津駅南口を出て左に向かいました。

この町の感想を書いておきましょう。この町の第一印象は人の少なさです。当日は小雨で、少し動いて風がないとなると汗がどんどん出てくる、むっしとした天気。この天気も関係しているとは思いますが、人が少なく、人より車の数が多い。

町から聞こえてくる音は、車の作動音が基本で、生活音や人の話し声などは耳を澄まさないと聞こえてこず、車の音さえなければ、静かな町です。

この静けさが展示を見たぼくにあるイメージを呼び起こすことになります。

自然も比較的豊かだったと思わせる環境がありました。ところどころに緑が点在し、空堀川という川もありました。この川は護岸工事さえされていますが、河原もあり自然的な雰囲気をいたるところで感じさせます。

空堀川

そして道を進むと国立ハンセン病資料館に出会います。

国立ハンセン病資料館のなかへ

国立ハンセン病資料館はもともと国立療養所多摩全生園と呼ばれるハンセン病患者の療養所に作られた資料館です。

国立ハンセン病資料館

ハンセン病についての歴史はここで詳しく書かないことにします。なぜならできるだけこの投稿を読んだ人たちに資料館へ行ってその歴史とモノをみてほしいと思うからです。

ですが少しぐらい書いておかないと、この投稿の意味が薄れてしまうので、ごく簡単に述べておきたいと思います。

以下入場時にもらえるパンフレットより引用します。

「ハンセン病はらい菌による経過の慢性な感染症です。感染しても発症するとは限らず、今では発症自体まれです。(中略) 治療薬がない時代には変形(顔や手など)を起こすことや、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきました。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになりました。」国立ハンセン病資料館パンフレット「病気について」より引用()は筆者加筆

展示によると、この差別は有史以来(2000年以上)続けられてきたようです。この差別は明治以降、法律制定により隔離という手段でおこなわれていきます。資料館一階にはその差別のための区画に使われた、2mの塀や4mのヒイラギの垣根の写真とその高さを示すレプリカがあります。二つとも患者が外に逃走するのを防ぐために作られたものです。

それ以外にも、手の変形によって箸をつかめない人用に作られたスプーンやフォーク、足の切断を余儀なくされた患者のために作られた義足などが展示されています。これら隔離施設内で使用するものは基本的にその施設内で患者自身によって製作されたもの。

ぼくは衝撃を受けました。小中学校では、明治維新は文明開化であり、きらびやかな舞踏館などを学びますが、その光によって作り出された陰には、この人たちの悲しみが反映されていることを再認識しました。

そんな展示をみながら思いに更けていると、この資料館に来るまでの静かさと自然の状況などがこのハンセン病の隔離施設と妙にマッチした感覚・イメージを感じました。

国立ハンセン病資料館のHP1)2019年6月29日閲覧を見てみると施設周辺はかつて、雑木林であり「東京府下の周縁の地」との記載があります。だからこそこの地が、ハンセン病の治療施設として選ばれたんでしょう。差別は時にへき地へ人を追いやることになります。そのあらわれとしてぼくは解釈します。そしてその環境は、住宅だらけになった現在も本質的には変わっていない。と考えています。

現在、資料館付近には住宅が無数にあり住宅地化しています。先述した通り静かな首都感のない町になっているわけです。その要因はこの町自体が電車が通る現在も、東京の「周縁の地」だからでしょう。その本質は今も変わらずに存在しています。ぼくはこの現状をフィールドワークによって得ることができました。

帰り

資料館の見学に約3時間ほど使い、帰路につきました。秋津駅についたとき、資料館への道とは異なる方向を少し歩いてみました。行きは南口から出て左に行ったんですが、右に進んでみたんです。右に進んだ先には一本の通りがあり、そこは比較的栄えており、サイゼリアやカラオケなどが点在。人通りも比較的多い。ぼくはその光景を見て、また光と影を認識しました。そして、宮崎駿の「おろそかに生きてはいけない」という歴史認識から生じた責任を認識した東京初日でした。

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脚注   [ + ]

1. 2019年6月29日閲覧

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