一枚のくたびれたプリントによって呼び起こされたもの

発掘された一枚のプリント

先日部屋を掃除した。その時、なぜか残っていたプリントの中から一枚のプリントを見つけた。発掘というほうがいいだろう。

プリントそれには、ぼくが大学学部一年生の時に受講していた哲学の学期末レポートの書き方が記されていた。

講師は星陽一郎先生。比較的厳しく、寝ている生徒を片っ端おこし、スマホも絶対禁止にしている先生だった。記憶が確かならば少し気難しい先生である。

その先生がわざわざ用意したプリントである。約6年間ぼくの部屋に残っていたようだ。ぼくは比較的断捨離が得意で、思い出の品などはずばずば捨てる。しかしこのプリントは残っていた。少し記憶を遡れば、このプリントは意識的に残したような気がする。しかし、ぼくはそれを忘却し、論文も書かなくなった今更見つけ出して、ノスタルジーに浸っている。

なぜかノスタルジックになる。なぜだろう。

多分それは、ぼくがこのプリントをもとにしたレポートをきっかけにして、文章を書く楽しさに気づいたからだと思う。

このプリントは先述した通り、レポートの指南を目的としている。B4判で、中央に折り目が強く残り少し汚れている。幸い破れてはいないが、経年による劣化はしている。基本ワープロによる印字だが、何度も印刷しているのか、鮮明なはずの文字がかすれ少し潰れており、その印字に交じって、先生の独特な文字が手書きで書き加えられ、それがまた印刷されている。そしてところどころ線状の影が入っているため、切り貼りしてこのプリントは印刷されたんだろう。

このプリントを目を皿のようにして読み、その技術をできるだけ吸収しようとしていたかつての自分のイメージが蘇ってきた。そしてそのイメージは、高校時代にまで伸びていく。

頭が悪かった時期

ぼくは小学校と中学校まで頭が悪かった。しかしその頭の悪さは、高校一年生の時に出会ったある一人の教師のおかげである程度は解消された。その教師の正確な情報は覚えていないが、確か水野という名前だった。下の名前はぼくの脳みそのどこかに消えた。

水野先生は女性であり数学の非常勤講師だった。あまり詳しくは知らないが、アニメが好きだった記憶がかすかにある。ある生徒とナルトの話をしていた。

ぼくはこの水野先生に会った後もしばらくは勉強などやる気にはならなかった。そのため、高校一年生の一学期には数学の単位が1で、追試を受けた記憶があるし、たしか一度テストで0点をとっている。

もっとまずいのはぼくが行っていた高校は非常にバカ学校だったこと。正直名前を書けば受かると思う。そしてぼくはその高校の工業科に属していた。なぜ工業科を選択したのかは簡単で、ぼく自身中卒で働きに出るつもりだったが、中学の教師に反対され、資格が習得できる工業科しかも簡単に入れるところを選んだからだ。実際ぼくの身の回りには中卒で働きに出た人が比較的多い。地域的にその傾向が強かったんだろう。

正直、単位1をとったときほっとしていた。これで大学を一定の理由をもって辞めることができるかもしれないと思ったからだ。しかし、その道は水野先生のある態度で自ら閉ざすことになる。

ある日、水野先生の数学の授業、いつも通りサボっていたぼくは、水野先生から声を掛けられ、ある数式を解くことができるかと尋ねられた。そんなのは僕には不可能で、わからないと答えた。その時、水野先生はあからさまに、がっくりとした顔をした。言ってしまえば、バカすぎん? みたいな態度だった。ぼくはこの態度に傷つき見返してやろうと思ったことをうっすらと覚えている。しかし、ぼくの方から能動的に行動を起こしたはずはないと思う。その時の僕は非常に受け身だったから。

そのあと、どういう過程だったかはちゃんと覚えていないが、たしか水野先生が別の授業日に、特別に問題を印刷したプリントをぼくに渡してくれた。たぶん、ぼくはその問題を解き始め、幾日か経ったときには水野先生と何人かの生徒とともに居残りをして、高校の正規の授業内容に追いつけるようになっていた。

確かその時sin、cos、tanをやっていて、次回のテストではたしか90点台に達したことを覚えている。

そして水野先生のおかげで、ぼくの世界は広がった。

広がった世界の向こうにあったもの

その後、ぼくは勉強が楽しくて楽しくてたまらなかった。目の前にある問題を解くことが楽しかったのだ。そのあと、いろいろと勉強をして、学期末には全体的に成績が上がり、担任教師からは短期間でここまで成績が上がった生徒は初めてというお褒めの言葉ももらった。

勉強によって確実に世界は広がった。

高校二年生の後半、進路相談や進路決定を考える時間が自動的に増え、進路のことについて考える時間が増えたため、ぼくの脳にはあるワードが時折横切るようになっていた。それは「進学」。

そこからしばらくして真剣に考えはじめ、ぼくはそのワードを主体的にとらえるようになり、大学進学を決めた。いろいろ考えた。ネットで大学のことを調べまくっていた。最初は経済学部にでもいいかな。と考えていたが、高校二年生から歴史にひかれていたぼくは、歴史学科がある愛知学院大学を選択し、AO入試にすべてをかけた。少し横道にそれるが、愛知学院大学はそんなに頭がいい大学ではない。いわゆる、中堅的な大学だ。しかし、当時の僕は工業科の生徒であり、高校もバカだったため、「担任からは厳しい。多分無理だろう。」と言われ、指定校推薦を進められた。その指定校推薦先には実は愛知学院よりも頭がいい大学もあったが、ぼくは歴史がやりたくて、強行した。

無事合格。本当にうれしかった。正直面接の感触から言って落ちたと思っていたが、合否発表サイトに自分用のパスワードと受験番号を入力したところ、桜で飾られた「合格」の文字があった。

そしてぼくの世界はまた広がった。

その大学生活で最初に述べた星陽一郎先生の授業を受講し、先日発掘されたプリントをもらったという訳だ。そのプリントをもとにして書いたレポートは確か、立場によって変わる正義についてで、ぼくが抱いていた疑問に向き合って書いたことを覚えている。この作業によって何かを書くということ、考えるということの楽しさに目覚めた。

水野先生のおかげで広がった世界の先には、星先生と幾人かの恩師、そして「文を書く楽しさ」と「考える楽しさ」がいた。そしてぼくはこの二つに魅了され今ここにいる。

一枚のプリントが呼び起こしたこと

一枚のプリントによってノスタルジックになっていたことを、投稿しようと考えた結果、中学高校時代にまでさかのぼることになった。

水野先生はぼくが2年生になるときにほかの高校へ異動になった。そのことを知っていたぼくは最後の授業の終わりに、教室から出ていく先生へお礼を言いに行ったことを覚えている。その時言われた言葉を思い出すことはできないが、たしか「これからも頑張って」と言われた気がする。水野先生が異動したあと、一度もあっていないしどうなったのかも知らない。今も先生を続けているのかさえわからない。母校に問い合わせれば何とかなるかもしれないが、個人情報の保護にうるさい現在恐らく無理だろう。いつか直接会ってお礼を言いたいし、ぼくが修士号にまで修得したことを報告したいが、たぶんそれはかなわないだろう。

その水野先生が広げてくれた世界の先に星先生がいて、考古学の恩師白石浩之先生がいる。それ以外にもいっぱいいる。そして「文を書く楽しさ」、「考える楽しさ」もそこに待っていた。この存在たちに会えたことをうれしく思っている。

たぶんぼくは、このくたびれたプリントをこれからもどこかに保管し、いつか発掘してまた記憶を辿るだろう。

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