クラシック音楽化する映画たち

はじめに

さて今回は、先日アマゾンプライムでドキュメンタリーを見ていた時に、2016年に公開されたゴーストバスターズのCMを見たことをきっかけにしています。最近2.30年前に公開された映画のリブートやリメイク、新たなシリーズの追加が多いなと感じませんか? なぜ今(最近)さまざまな名作映画がリブートされリメイクされるのかを、クラシック音楽の構造を投影させて考えていきたいと思います。

この投稿に関しては、実はあまり下調べができていません。というよりあまりに情報量が多すぎて、不可能に近い。。そのため、こんなことを言うのはだめですが、もうほかに同じようなことを言っている人がいるかもしれません。その場合は、教えてください。。

またこの投稿は2019年6月10日にぼくのTwitterでの粒訳をイメージとして書いています。

リブートされた映画

ぼくは1996年生まれですが、ぼくが幼かったころは金曜ロードショウや土曜プレミアム(だったかな。。)で毎週のように映画が放映されており、そのレパートリーは、「ターミネーター」や「スターウォーズ」、「インディージョーンズ」、「プレデター」、「エイリアン」などなどの、1970年代から1990年代の映画でした。

だから僕たちの世代は、自分が生まれる前に上映された映画に対して、子供時代を投影させ「なつかしさ」を感じることもできます。その結果、これらの映画はストーリー無理はあるけれど、なんか名作だといった認識をもっている。いわば想い出補正をかけている人も多い。ぼくもその一人です。

そして最近リブートやリメイクされている映画はこのかつての名作が多いことがあげられます。なぜでしょうか。次からは、なぜかつての名作がリブートされリメイクされ新たなシリーズが追加されるのか。を考えてきたいと思います。

横道:ぼくとクラシック音楽

ここで少し横道にそれる必要があります。この横道を通ることで、ぼくが眺める映画の将来観を深く理解してもらえると思うからです。

ぼくは、「ひとりの木とは」という投稿で、知はつながりを持ち、人はつながりをもつ知のために、幹になり得る専門をもつべきだ! と主張しています。その投稿の中では幹は考古学ということでしたが、実は考古学のみではなく音楽もぼくの中で非常に大きなキャパをしめています。

大学4年間のうち3年間はほぼ音楽(合唱)漬けでした。ぼくが音楽に目覚めたきっかけは中学校時代の合唱祭や中学2年生か3年生の時にTVでベートーヴェン作曲の交響曲第9番を聴いたことです。そのためクラシック音楽に傾倒し、大学では合唱を選びました。

クラシック」という名称は「古典」を意味します。そのため、クラシック音楽で素晴らしい作品と考えられている曲はすべて過去の産物であるという考えがこの投稿では重要になってきます。

横道から本論に戻ります。

さてぼくのこの音楽観から、「はじめに」に書いたゴーストバスターズのリブートを見たときにあることがひらめきました。

ぼくらが小さいころ金曜ロードショウでみていた名作映画はクラシック音楽化しているのではないかという考えです。これはこの投稿のタイトルにある通りですね。

クラシック音楽の再演の構造

クラシック音楽と聞くと何を思いうかべますか?

 気取った人が聴く音楽

 古臭くつまらない

 演奏時間が長い

などなど人それぞれだと思います。ぼくはこの投稿でその考えに答えるつもりはありませんし、答える必要もありません。なぜなら上でも書いた通り、この投稿ではかつての名作映画のリブートやリメイクの構造と、クラシック音楽の再演の構造が類似しているという指摘だからです。

クラシック音楽といえば色んな曲があります。有名どころで言うと歓喜の歌とか木星、田園など数えきれないほどあります。これらは歴史的な人物、例えば先に名前が挙がっているベートヴェンやモーツァルト、シューマン、ブラームス、ホルストなどが何百年も前に作曲したものです。

その古びた曲たちは、2019年現在でも再演されているわけです。

なぜでしょう。

ぼくが敬愛する現代作曲家の西村朗さんはかつて「クラシック音楽というものは振り返れば宝がある」というニュアンスの言葉を言っていました。

この動画の30秒ぐらいからそのことについて語っています

その通りでクラシック音楽はもう終わってしまったジャンルだと言えます。いつ終わったのかは、議論が分かれるかもしれませんが、リヒャルト・シュトラウスの死(1949年没)か、ドミートリイー・ショスタコーヴィチの死(1975年没)をもって終焉と考えることができます。

もう終わってしまった音楽ジャンルとしてクラシック音楽があるわけですが、その曲たちは捨てるには、忘れるにはあまりにも、もったいないものばかりであることが重要です。

その曲たちは、漠然と人類共通の宝といってもいいものばかり。そんな宝を捨てるのはもったいないわけです。そして、音楽は、それを鑑賞ないし演奏する人々の人生に沿った解釈が意識、無意識的におこなわれる自由があり、いろんなヴァリエーションが存在するし、させていいわけです(必要最低限のルールはあるかも)。

宝であり、解釈可能な作品としてのクラシック音楽の曲たちは、いま現在も人々を魅了するので再演が行われているわけです。

次にこの構造を映画に適用させていきましょう。

かつての名作映画とクラシック音楽の構造

ここで重要なのは、当たり前で何度も言っていることですが、リブートやリメイクされている作品すべてが過去名作だということです。

過去、そしてそれら名作映画は映画史に確実に名前が刻まれている存在です。そのコンテクストはクラシック音楽の立場に似ています。過去の名作映画は歴史的な作品であり、クラシック音楽で言うベートヴェンの作品と変わりない役割を担っているわけです。

ということは映画の歴史はクラシック音楽が辿った歴史のように、ひとつの区切りを迎えているといいことは考えてもよさそうです。その区切りの内容は恐らく、クラシック音楽の命であった調性の破棄のような、内的なものではなくテクノロジーのような外的な要因による画期だと考えることができるのではないでしょうか。ここはクラシック音楽の歴史とは異なる点です。

映画はかつて2Dの作品が基本だったことを覚えています。3D映画は一部だったと記憶しますが1)記憶で言えばスパイキッズ3とか、それがジェームズ・キャメロン監督の「アバター」の登場によって一気に3D化が進んだような経験を持っています。そしてかつてはミニチュアを用いた特撮でおこなわれていたSF的描写がCGによって代替わりされたことをきっかけに、映像では再現不可能だった世界を可能にしてきました。これはすべてテクノロジーを要因としています。

ぼくが先に挙げたかつての名作映画の中にももちろんCG技術は使われていますが、いまリアルなCGを当たり前だと思っている人たちから見れば、非常にしょぼく見えるでしょう。

このテクノロジーによって拡張された表現手段を起因としてリメイク、リブートすることができる。なぜリメイク、リブートするのかは、よりリアルさを追求するという態度のみではなく、クラシック音楽と同様に捨てる、忘れ去るには惜しいものだから。とぼくは考えます。

ここに結論が出ています。ぼくが最初に挙げた最近、リメイク、リブートされている作品はテクノロジーの進化によって作られた画期の向こう側に属するものであり、それはあたかも、もう終わってしまったクラシック音楽と同じであり、どちらとも忘れるには惜しい、歴史に名が刻まれた作品であるということです。

だからこそ、かつての名作映画はこの投稿のタイトルのように、クラシック音楽化しているということになります。

おわりに

最近アメリカで、もとはアニメーション作品だったものを実写化する動きが強いと感じています。現在公開中のアラジンやピカチュウ、公開は終わっているものでも、プーさんなどがありますが、これらは先の映画史の画期以降に製作されているわけです。

アニメーションは基本的に実写では不可能な描写を、リアリティをもって表現するとができます。絵だからこそです。しかし、その絵の専売特許であった実写不可能性はCGというデジタル技術によって、実写化可能になっているわけです。

CG技術の進歩は基本この実写不可能を可能にするという目線が重視されるかもしれませんが(上で書いたリアルさを追求する態度がこれです)、クラシック音楽を消費しているぼくからすれば、それだけではなくCG技術はかつての映画のクラシック音楽化を促すと解釈できるということです。

今回はあるひらめきから、約3000文字の文章を書きました。以外と書いている最中に「あれ、これ当たり前のことを書いているような気が。。」という思いが浮かび上がりましたが。それを承知の上で投稿しました。

ぼくは映画に関して素人です。もし間違いがあれば教えてください。

脚注   [ + ]

1. 記憶で言えばスパイキッズ3とか

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