ひとりの木とは

要約

このブログのタイトル、「ひとりの木、考古学」という名前の由来について述べていきます。まず、「ひとりの木」についてですが、これは知(知識)と木が形態的に類似しているのではないか。と考えたことに由来します。木には根や幹や枝がありますが、知もまた同様に、そのような構造があるのではないでしょうか?

その考えを基本にして、次のワード「考古学」を見ていきましょう。考古学は、ぼくがもつ知でいう幹に当たります。そして枝は、考古学から派生した、好奇心であり、具体的には哲学や、アニメーションなど、一見かかわりのない知です。しかし知は木のように、様々な範囲と結びついています。木が日光獲得のために、枝を伸ばすように、知は自身の好奇心によって、派生し一見かかわりのない知とつながりを持つ関係を構築することができるのです。その構築のために、このブログは存在しています。この投稿は説教ではありません。ぜひ本文も読んで意見をください!

はじめに

この記事では、ひとりの木、考古学というこのブログのタイトルについて、簡単に説明していきます。

木と知は同じような形

このブログのタイトル「ひとりの木、考古学」は要素を文字通り2つに分けることができます。ひとつは、「ひとりの木」で、もうひとつが「考古学」です。まずは、「ひとりの木」について見ていきます。

木というと何を思い浮かべますか?

木は非常に人間に近い存在です。マンガや映画ではひとつの木の周辺に集落が形成されている描写がいくつもあります。また、生物の進化を図化したものは「系統樹」と呼ばれることも。

木という存在は、何かと何かを結び付け、ひとつにする力を持っているのかもしれません。実際、木は根や幹や枝といった各要素がひとつながりになっています。

そして、ぼくはこの木の状況を考え、そしてある切っ掛けから、知と木は同じような性質があるだろうと考えました。

その切っ掛けとは宮崎駿監督「となりのトトロ」の一描写です。

となりのトトロのある描写から

となりのトトロ この作品の解説はさすがに必要ないと思うので、木に関することだけ述べていきます。

この映画には序盤から大きなクスノキが登場し、そこにトトロが住んでいるわけですが、この物語の中盤、サツキとメイが雨が降るバス停でトトロと対面するシーンがあります。

その際、トトロにサツキが父親の傘を差しだしたお礼として、木の実をもらい、サツキとメイはそれを庭の一角に植えます。ある夜、サツキが目を覚ますと、その木の実を植えた場所でトトロ一行がある儀式をしています。

そこにサツキと、メイが駆け寄り、その儀式に参加すると、次々に木の実から芽が出て、一気に雑木林のように茂っていきます。その後も雑木林は、成長を続け大きな一本の木になる。非常に感銘的なシーンなので覚えている方も多いでしょう。

この描写は、ぼくに知についてある切っ掛けを与えてくれました。そのことについて少し道がそれますが、私的経験を書いておきたいと思います。

ぼくが学部4年のころ、指導教官だった白石浩之先生に大学院に進学したい旨を話しました。その後、進路相談というかたちで面談が設けられ、先生から「なぜ、大学院に進学するのか?」と問われ、ぼくはとっさに「もっと勉強がしたいからです。」と答えました。

それを聞いて先生は「学部と大学院は目的が違う。学部は勉強をするところ、大学院は研究をするところ。それをわかっているのか?」という手厳しい(その時のぼくにとっては)返しがありました。ぼくは、またとっさに、そして自信もないのに「わかっているつもりです。」と見栄を張った返答をしました。

その時ぼくは、勉強することと、研究することは違うんだという風に考え、そして何が違うのか、学部生とは違った大学院生として必要な能力・知とは何かを考えるようになったのです。

その時安易に、雑学博学を対立として設置し、後者を大学院生として必要な能力・知にしようと考えました。

そして思いついたのが、このとなりのトトロの描写だったんです。

この描写を、その雑学と博学の対立として解釈してみると、次のように考えることができます。

木の実の状態は、まだ興味が出ていないことを表すと考えることができます。みんな、潜在的に様々な可能性をもって生まれてくるのと同じです。次の芽が出る場面は、その興味の萌芽として解釈できる。そして雑木林の状態は、文字通り様々な独立した知識、いわば、雑学的な状態と考えることができる。

そして最終的には、個別に存在した知(雑学)は、成長を続けると木の種類も関係なく組み合わさり、家を覆うほどの大きなひとつの木へと成長、雑学からひとつながりの大きな木(知)となる。

そんな風に解釈すると、雑学は博学の下位概念として考えることができます。

ここまでは、ぼくの私的経験から立脚した視線、雑学は博学に劣るという考えを、となりのトトロの描写を引用して述べてみました。

次にとうとう考古学(という言葉を)を登壇させて、つながりのある木を構成する要素と、つながるべき知を構成する要素について書いていきます。

[雑談]ここで新たな定義が生まれます。雑学とは、非常に孤立した知識であるということで、あまり汎用性がありません。雑学を知の誇示として使うこともできますが、現代は誰でも、片手にスマホを持っているので、何冊もの辞書を常に持ち歩いているのと変わらない状況です。その状況下で、その知の誇示はあまり意味がないと考えています。

つながる考古学

ここでやっと考古学1)ちなみに、サツキとメイのお父さんは考古学者であるとよく言われています。これについても後日、ぼくの観察を通して少し考えていきます。が出てきます。

木には3つの要素があります。それは根・幹・枝です。葉は抜きました。。これら要素がつながりをもって木が存在しています。

そのつながりのある木の要素を知とクロスして考えることで、知の本質的な姿をみることができると考えています。

では具体的に見ていきましょう

先程挙げた木の要素の中で最も重要な要素は、です。根がなければ、木は立っていることもままならない。そして根は他人には見せません。その状況から、根は他人には見せない隠れたものの考え方だということができます。言葉を換えればイデオロギーのようなものでしょう。

そしてその上に大きなそして太いがあります。この幹は後で述べる枝を派生させる大元です。なので、幹とはその人のものの考え方を大きく支える、概念だということができます。ぼくで言えば、それが「考古学」なのです。

ぼくのものの見方は、基本的に考古学的です。堅苦しく言えば専門と言えます。

そのから派生していくのがです。いわば、考古学から派生した興味と言えます。ぼくの場合、それは哲学であり、美術であり、アニメーションだと言えます。

は、日光を求めながら伸びていきます。知は好奇心によって、その枝を伸ばしていくのです。

これまで、述べてきたとなりのトトロの描写と、木の形態、つながりを持つ要素と知の要素をクロスして考えると、知そのものの本質的な姿を見ることができます。知とは本質的に、雑木林のような個別に独立して存在するべきではなく、ひとつの木として存在したほうがいい。そして、知は木のようにつながりを持つことができるということです。

なぜ知は木のようにつながらなければいけないのか

簡単な話、人間は本来的につながった生物だからです。人は一人では生きていけない。人間は生物でも稀な、出産さえ一人ではできない動物です。そして、ぼくたちは右脳と左脳、感性と理論という矛盾する脳、能力を持っています。

人間は現代考えられているように、デジタルに区別できる生物ではないんです。

もう少し、生活につなげて考えてみれば、ある時に記憶の扉が開けるときがありませんか?

何かをやっている時に、何も関係ないとも思えることがふと頭を横切ることがある。あるマンガを読んでいる時に、ある時言われた言葉がよみがえったりするやつです。

普通は、そこで終わりですが、ぼくはそれを大切にしています。その一瞬から様々ことがつながっていきます。その一瞬を広げていくことで、無駄だと思っていた小中学校の時の授業の記憶が繋がったりもする。専門外の知識もつながります。

そのつながりを大切に、そして意識すれば、自分の世界観は広がります。今まで書いてきたことは、いかにも勉強的かもしれませんが、上に書いた一瞬の記憶の開放は音楽を聴いていても起こる。そして世界観はいわゆる趣味でも拡張することができます。

というより、趣味の本来的な意義はそこにあったはずです。旅行に行くのも、山を登るのも、音楽を聴くのも、絵を見るのも。みな自分の体験やイメージを拡張することができる。

いわば、ぼくがここで言っていることは趣味以外の何物でもないのです。

おわりに

具体的に、つながるためにどのような努力が必要なのかは、人それぞれでしょう。ぼくの実践は、まずは、ぼくで言う考古学に当たる、幹を育て、そして貪欲に他分野へ視線を伸ばし、上で述べた一瞬のひらめきを大切にするということになります。

ぼくの指摘は蛸壺研究2)蛸壺とはこの投稿で言う、幹だけを育てている状況です。をしている、専門者・研究者への批判にもなります。それについては後日詳しい投稿をします。

私は1994年に生まれました。そしてIT革命を経験し、スティーブジョブズのiPhoneの登場をリアルタイムで経験している。そして、私たちの手元にはスマホがある。

そんな現代において、暗記3)ここで注意しておきたいのは、暗記そのものに意味がないとは言いません。現代においてはその意味は弱いと言っています。そして大学受験は残念ながらAO入試を除いて暗記の世界です。だから暗記は必要。暗記はゲームと考えるのもいいでしょう。この考えはぼくが面白い人だと考えている東浩紀さんからの影響もあります。その文章(ここをクリック)もぜひ。、それに立脚する雑学はあまり意味はありません。私たちは縦横無尽なつながりを持つ知の木を形成させなければいけないのです。でなければ、今、2019年に生きている意味がありません。

そして勉強のツールは非常に多様化しているYouTubeでも勉強はできる。そして、つながりを意識さえしていれば、ジャンプを読んでいても勉強できるのです。実際、次回以降の考古学に関する記事で、ジャンプコミックスを使って説明します。

ではまた。

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脚注   [ + ]

1. ちなみに、サツキとメイのお父さんは考古学者であるとよく言われています。これについても後日、ぼくの観察を通して少し考えていきます。
2. 蛸壺とはこの投稿で言う、幹だけを育てている状況です。
3. ここで注意しておきたいのは、暗記そのものに意味がないとは言いません。現代においてはその意味は弱いと言っています。そして大学受験は残念ながらAO入試を除いて暗記の世界です。だから暗記は必要。暗記はゲームと考えるのもいいでしょう。この考えはぼくが面白い人だと考えている東浩紀さんからの影響もあります。その文章(ここをクリック)もぜひ。

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考古学、それはかつての人間(ヒト)によって残されたモノを観察し、そこから忘れ去られた、なにか(行為や情景などなど)を呼び覚ます学問です。そのため、一般的に考古学は人文学、特に歴史学の中に含まれます。 歴史学に含まれるという学問的性質上、考古学者はよく過去に囚われてしまうのです。このブログは過去に囚われない考古学を構築し、現代へとその視線を広げます。

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